迎春

あけましておめでとうございます。
まずは新春歌い初めの歌詞を一部公開いたします。年女の画家たちも多い今年、画廊にも子年の恩恵がありますように!!

ちゅうちゅう画家の片道切符
ちゅうちゅうとれいん 画家を目指し
銀座の画廊へと旅に出た
oh oh
片道切符にぎって

バイバイライス 米より筆と
おひげ抜いたあとの頬が寂しい
oh oh 自給自足のブルース

途中くじけてチーズをゲット
今夜はオープニングパーティよ
やさし友と時を忘れ
ただただたべる

ちゅうちゅうとれいん 画家は行く
心にしみる絵を描くために oh oh
もうどこへも帰れない

恋の濡れねずみ

あなた探して 濡れる頬
銀座の路地の 隅々で
噂きいては 泣いてます
こんなにしっぽも長いのに
私は恋の濡れネズミ
あなた今夜は どこのドブ
銀座ネオンの その下で
どこのどなたと いるのやら
こんなにお米もためたのに
私は恋の濡れネズミ

米俵ブルース

ああ米よ米よ
忘れられない 米俵ブルース
わたし ひとりで彷徨って
霧と戯れ ミッドナイト
酔った私を 支えてくれたああ米俵 米俵の唄はブルース
ああ米よ米よ
波止場の奥の 米俵ブルース
霧笛 ひとつが友達で
淡い夢だけ サイレントナイト
酔った私は あなたのもとへ
ああ米俵 米俵の唄はブルース
Misoana Ross画伯がピアニカで鋭意作曲中!!につき、この後も乞うご期待!

大野麻子展

大野麻子画伯の個展が今日から。
1969年神奈川県藤沢に生まれ、1994年多摩美大大学院美術研究科を修了したのちは、コンクールや個展、グループ展などで精力的に作品を発表している。
当画廊では2002年に初個展、以後2003年、2005年と一年おきに続け今展で四度目になった。
初回は「風のむこうへ」と題し、はるかに続く大地へのあこがれを、二回展では「鳥の族(うから)」というテーマで鳥とその仲間である風や木々を描いて、絵の中に誘ってくれた。
三回目の前回は、日本神話から「海彦山彦」の物語を引用して「海の族」を描いた。大地から吹く風は海にわたると波を起こし、海から来る風は大地に雨をもたらす。『生々流転』ではないが、大野麻子の眼ははるか地球を一巡して、今展ではアララト山にたどり着いた。
いわずとしれた「ノアの方舟」が着地したと伝承される場所である。旧約聖書の創世記にあるこの物語に触発されて、彼女の想像の翼ははばたいた。大波のなかをさすらう方舟の下で海神たちが咆哮し、小さな舟にはヤハウェから許されたノア一族とつがいの動物たちが、肩を接してぎっしり描き込まれている。
画家にとって画面は天地だろう。原典の骨格をかりて、彼女の天地には縦横無尽に波はうねり、風は吹き下ろした。そして雨が止んだ時、時間まで止まったかのように静かに立ち現れる舟と実れる樹々。
これら樹々をとりまく空気は、なにかとりとめもない寂しさも含んで美しい。この世界観がきっと次の創造の糸口になっていくのだろう。
いずれ画家は自分の物語を紡いでいく。

阿部清子展ー劇場ー開幕!

悦子画廊では二度目となる阿部清子の「劇場」と題した個展が開幕した。本人も演劇が好きで一時女優を目指した過去もあるというが、本展では一点一点の絵にドラマを感じさせる構成で。
50号M二点の「過去からの逆襲」という作品は宗達の風神雷神図の骨格を借り、過去の元気一杯の自分が今の自分に逆襲している、といういささか自虐的なドラマ。落ち込んでしゃがみこんだ少女を、ミニサイズの龍が励ましている風なのが面白い。また、「見えない矢 見えない傷」という作品もまた人間関係の機微に触れるドラマ。それらをDMに掲載した「観」と題された人が見ている、という趣向だ。
絵を「劇」のように描くのはなかなか難しい挑戦だし、その全てが成功しているとは思わないが、ストレートに生の紙に生の筆線で生の感情を吐露しているライブ感が今回の阿部清子のー劇場ーを他に類を見ないものにした。
見た人は一様にその「なま感」に驚いただろう。細部まで仕上げない、まるで途中で筆を放り投げたような唐突な感じ、というか描きなぐったようなスピードにも。しかしながら見ていくうちにどの作品にも彼女の感性に従った入念なコントロールが施されているのに気付き、また驚く。
よく「大胆にして繊細」というが、彼女のは繊細すぎて大胆すぎるある時期の男の子のようだ。決して力まかせに振り回していない筆だが、肝心の決め場所にまだ迷いがあるのかもしれない。
ただ、決まりきった表現に堕さず自分の描きたいことに徹したある種の「鮮やかさ」がある。今の技術ではとても描ききれないような高みを目指して徒手空拳で挑んだ阿部の勇気は褒めてもいいような気がするが、ご見物衆はいかがご覧か。
会期中、胃を抑えながら絵の前で佇立していた彼女だが、初日には素敵なジャズギターのプレゼントもあった。多くの人に励まされ叱咤されまた思うところがあったに違いない。このー劇場ーがどう進化していくか楽しみに待つとしようか。

高石久仁子展発進!

銀座デビューの高石久仁子の個展が今日から。高石画伯は多摩美二部を卒業後、1999年大学院を修了。その後グループ展などで旺盛に発表を続けてきた。
昨年、彼女が個展をやりたいと画廊を訪ねてきた時には今までの経歴から初とは思わなかった。以来一年余、必死の努力を重ね念願のソロ展を果たした彼女の顔には力が漲っている。
これまで発表してきた動物や鳥、人物は影を潜め、渋い色調の風景や果実という新しいジャンルに挑戦し、高石画伯が本来持つ力強く滋味あふれる作品世界をさらに開拓した。
特筆すべきは独特のその色感だろう。箔の上に何重にも置かれた色の相は、奥の光をかすかに見せつつ静かに「そこにあるもの」を現出させていて心地よい。けして華やかではないが、穏やかに許されて「そこにあるもの」。絵を前にした彼女の充足が伝わるようだ。
繊細な盛り上げも描写も施している画面なのに、全体からおおらかな気が漂うのは画伯のつかもうとしている世界が虚飾を捨てたところだからか。素の自分にこだわり、喜怒哀楽にまっすぐ向き合う姿勢はこれからの彼女の大きな支えになるだろう。 この第一歩が画家・高石久仁子の初心だ。
さらにこの道が高みへと続くよう、初個展を見守った一人として切に祈るものである。
応援に駆けつけてくれた大勢の方へもスペシャルサンクスを。

LABO展ー19th初日

LABO展がとうとう19年目を迎えた。さすが19年目の余裕で当日朝搬入。しかも10時のお約束に誰も間に合っていなかった、というおまけまで。しかし開廊時間には何事もなかったかのように整然と作品が並んでいた。
振り返ってそれぞれのファイルをめくると、この「LABO」のメンバーは三人三様の脱皮を展覧会の度に遂げている。まさしくそれがこの展覧会の意味なのだが、実験場としてフルに活用し次の個展へとつなげているという事は、いうほど容易くない。
強張った理念とか主張ではなく、この三人がそれぞれの仕事に対する尊敬で結ばれ、ゆる~い枠のなかで勝手に仕事をしているという関係があればこその19年なのだろう。
上半身脱力すると思いがけない力が出る、となにかの武道の本で読んだが、それも腰が安定してればこその話。LABO展のことを思ったらこの達人の話が浮かんできた。力むばかりが能ではない。軽やかに19年の歳月を飛翔して明日のための一打を!

松村響子展ー十七字の世界

松村響子の絵画と俳句による展覧会が今日から。1994年武蔵野美大日本画科卒業後、教職につきながら制作を続けてきた。
また、俳句の方はお母様が俳句結社の主宰という環境で育ったため、若いながら俳誌から原稿依頼があるほどの腕前。今展はこの二つの表現手段を交差させる初めての試みである。
いわゆる俳画というものが、絵と俳句が一緒の画面の中でつかずはなれずの絶妙なバランスでなりたつ表現とすれば、彼女の試みは絵は絵、俳句は俳句として独立させた上で対比してみようとするもの。
個展の案内状の作品に添えた句は「月光の国を棲み家に守宮かな」。墨のたらしこみの地に、一筋の光が射し守宮の背を照らしている絵と呼応して、絵と俳句双方の味わいを深めている。
今展のテーマはひかり。淡く濃く色々な景を映し出すひかりは、今展の作品すべてに透明なきらめきを与えている。特筆すべきは前個展から引き続き挑戦した墨の仕事。濁ってしまいがちな墨の重ねに細心の注意を払いつつ、奥行きのある画面に仕上げてきた。
おりしも明日は十三夜。九月の十五夜とは趣きが違い深まり行く秋を惜しむ名残の月の頃だ。画伯は金泥と銀泥が施された薄明るい雲間に漂う月の絵に、「寂しさを少し抱えて十三夜」という句をならべた。月の下には色々なドラマが転がっている。まして十三夜の頃においてをや。
このように絵のもつ静的な印象と詞が奏でるドラマティクな印象が交差する時、もう一つの世界が立ち上がる。今回の試みはその可能性を示唆して興味深いもの。絵画と詞が切り離されて久しいが、遠い呼び声に促されて今展のような仕事が若い作家のなかから出てきたことがうれしい。二兎と思わず一つの月の裏と表と思ってそれぞれの道を精進してほしいもの。いずれ一つになる。

越畑喜代美展

越畑喜代美のお茶会風味と題された10度目の展覧会が今日から。お茶会風味とは何?、、。と思し召される方にご説明すると、先年より超お見立ての「なんちゃってお茶会」を催しているわれら台所茶会派の黒幕・みそそ画伯が、くれぐれも本物のお茶会と間違われないための用心に「なんちゃって」風味を加味したもの。
世の中は「松茸風味」だの「ホタテ風味」だの貧しいものたちへの愛に満ちたフェイクが溢れている。いつか本物の松葉蟹を思い切り食べたい!と思いつつ、カニかまぼこをかじる時、おや意外にもこの身の裂け方は本物以上と思われた人はいないだろうか。
大真面目に本格の挑戦をする時、大真面目にやったのではこの画伯の本領は発揮できない。遊んでいるのかと思わせて、いきなり核心をつく戦法がみそそ流。よっておのおの方油断召されるな。カニかまが蟹を越える日がくるかも。
今展では、バージョンアップした描き表装の作品他、カメラの画像ではとても捉えきれない繊細な描画の墨彩がメイン。カメラはおろか、人間の目でも五分や十分では捉えられない作品だと思う。たっぷり水を含んだ薄墨がどこにどう流れて、どういう溜まりをつくっていくのか。画家が作品と十全に語り合い遊んだあとがほのかにみえるまで、見るほうにもしばらく時間がいる。
ゆっくり、お菓子をいただきお薄を喫茶して壁に目がなじんだころ、紙から立ち上がってくる世界こそ彼女が今展で目指した挑戦だ。うす明るく清浄な空気がたちこめた桜の丘は、今までの絵の骨格を持ちながら過去のどの作品にも見えなかった奥行きがある。
前に冗談で「あぶりだし」のような絵だといったことがある。紙から立ち上がってくる空気が見える時まで見えないからだ。秘めやかに慎み深くその表情を隠しているが、一旦この空気に同調するや、うす墨は色をもち楽しげにその奥へと人をいざなう。
絵の半分は見る人が作る、と言ったら大げさだろうか。もちろん完成度は必要だが、隅から隅まで手が入った作品は私には鬱陶しい。隙間から風がはいらないとつまらないと思う。見る人が入れる絵ー越畑喜代美の作品の魅力はそこに尽きる。ただ、年々作家の遊ぶフィールドの奥行きが深まるにつれ、その冒険の旅のお供も成長を促される。
彼女の遊びたい場ー自由に水が流れていく方向は間違いなく本格の道だ。だが、まだそれをいうには恥ずかしい。だから本格風味。こちらも眼を磨いて彼女ならではのあざやかな切り口をみせてもらうこととしよう。

十周年記念―ちっ茶なお座敷遊び

毎年恒例みそそこと越畑喜代美画伯の個展が今日から。ところが、パソコンが再びクラッシュの憂き目に。前回の栗木画伯のアップもできないまま、パスワード探しの旅に出た悦子。積み重なった書類の、ジュラ紀やら白亜紀の層を彷徨いながら途方に暮れていた。

しかし、容赦なくやってくる初日。しかもお座敷モード、、、。急遽、応急処置の仕様で泥縄作戦(?)。なんとかならなかったことはない!とはいえ皆様にはご心配おかけしました。(ぺこり)。

またDMには以下の文をみそそ画伯に捧げさせていただいた。

画廊の歩みと軌を一にし、ここを挑戦場として、毎回小さな風呂敷をそっと広げてみせる越畑喜代美。恥ずかしそうにその中から取り出すものは、時に何も描いていない空間であったり、「る・る・る」とか「ら・ら・ら」とかいう

意味不明の言葉だったりする。みかん汁のあぶり出しや虫の音のように、目を凝らしたり耳を澄ましたりすることで、絵の中に仕掛けられた秘密のサインに気づく時、「越畑の世界」が思いがけない深さを湛えて目の前に立ち上がってくる。あるいは鼻歌をうたうように肩の力が抜けた時に見えてくる、その世界に誘うために、今展では座敷に描き表装の軸をしつらえ、お茶を供して遊んでもらおうとたくらんでいるらしい。 立ったり座ったり寝転んだりしながら、越畑喜代美の絵を楽しんでいただけたら望外の幸せである。

そして怒濤のオープニング!お茶会のそこはかとなくお上品な感じは、瞬く間にマトリョーシカ大会に。大きい順に並んでいる筈だが、順番にあたっていささかの齟齬があったこともご報告。ともあれロシアだかモンゴルの少数民族の家族会議のような有様に爆笑の嵐。絶滅種だの、みそそ画伯はその村の最後の小学生だの喧しいこと。ラテン文学の巨匠ガルシア・マルケスの「族長の秋」という小説を思い出しつつ、この中で族長は誰?と見渡したことだった。

瓜南直子展後期ー今昔物語

11日からいよいよ後半の会期に入り、19日まで。新作の制作でおおわらわだった瓜南画伯も京都から鎌倉入りし、デビュー当時の作品とともにご上京。一夜にして今から昔へと画廊空間はワープした。
瓜南画伯はなにせこの兎神国の主につき、最初から最新の「ものたち」の上に君臨しておられる。画伯がご光臨になるやいなや「ものたち」がざわざわ騒ぎ始め、にわかにいきものの気配で濃密な空間になった。
前半の今物語の時は整然と統制のとれていた兎神国の臣下たちも、昔物語のつわものたちの前ではお行儀よくしていられないようだ。
1990年代前半作の橋姫シリーズ3点は左からTOBI、UZUME、TACHIHIと名付けられているお方たち。この橋を守る重大なお役を担い、飛んだり、蹲ったり、立ったりしていらっしゃる。なにか物憂いそのお顔を眺めているといつの日かこの橋を渡って旅立ちたいようにも思えてしみじみする。
また根の国の方は赤いむくむくした雲を握りしめてなにやらお仕事中。本展の中では一番古株につき迫力もそれなりに。圧倒的に兎神国では女たちが多いのだがこのお方は気は優しくて力持ち系らしい。やはり「根の国」はこういう方に守られていたか。
「信太」は1994年作。繰り返し狐の面のこの子は兎神国のあちこちに現れるが、これが初出。異空間から突然現れるのが特徴。
等々、一つ一つの「ものたち」にはそれぞれの由来やら物語があるのだが、その全貌が明らかにされるのはまだ先。主たる瓜南画伯のご機嫌をうかがうとしよう。
画伯の「けものへん」たちに呼ばれたか、「アニマルシリーズ」で有名な河嶋淳司画伯が表敬に。奇しくも同じ鎌倉エリアのご近所のけもの道に引っ越されたとか。「けもの」と「アニマル」の遭遇をかいま見た悦子は大満足。また瓜南カレンダーご愛用という村田・岡本太郎美術館館長が、現代美術資料センターの佐々木氏と。また沖縄で大変お世話になっている那智ひとし氏も、古代文明には大変お詳しい方。いずれも瓜南帝国の生成と展開に満足して帰られた。

瓜南直子展前期ー今昔物語

瓜南直子の今と昔をつなぐ展覧会が前期~10日までと後期19日までに分けて今日から。
会期に先駆けて皆様にお届けしたパンフレットには、以下の文章を。

今は昔、絵と物語・詞は分ちがたく結びついていました。
絵から言の葉が流れ出し、言の葉から絵が紡ぎだされるーその蜜月の時代は遠くなりましたが、二十世紀末・一九九○年に豊饒な物語世界を孕んだ作品を携えて絵師・瓜南直子が画壇に登場、太古のおおらかな精神を汲んだ絵巻を少しずつ広げては心躍る世界へと誘ってくれています。
「絵でなくては伝わらないものを、なんとかしてやらなければならない」と初めて絵筆を握ってからの歳月、瓜南直子のたらした矛の先のしずくは色々な「たましい」を生み出し、歴史や自然のあわいに漂う精霊となって長大な時間や空間を流離するという暗喩に満ちた「物語」となりました。
本展は、二〇〇〇年以降「仮名絵草紙」「けものへん-その一」「けものへん-その二」「月こそ神よまどかにて」と続いた柴田悦子画廊での連作から最新作までを前期の日程で「今」、初個展から一九九九年までの作品を後期の日程で「昔」として展示し、吟遊する絵師・瓜南直子のいまだ止まぬ旅の道程をご 紹介するものです。
今ハ昔、東ニ女アリケリ‥‥。

まずは画像で2000年から最新作までをご覧あれ。

安住小百合展

安住小百合画伯の悦子画廊デビューは2000年。以来毎年この季節に個展をして8回目になる。モデルのお小さかったお嬢ちゃんも年ごとに成長(当たり前だが)し、画面でも美しさを加えている。
はじめの頃を思い出せば、まだ手の離せないお年頃だったお二人のお嬢ちゃんを抱え絵筆をとるのも大変だったはず。にもかかわらず 、着々と歩を進め2003年からは日展に再び出品し春秋に大作を描くという離れ業まで。それも髪を振り乱して、という訳ではなく淡々と優雅にこなしている(ようにみえる)。
その努力の甲斐があって着々と安住ファンは増え続け、色々なジャンルの方のご来廊で画廊は花が咲いたよう。人を大事にし花を愛し絵を描く喜びを天命として日々を過ごす画伯のお人柄の賜といえよう。
連作で描き続けている菱形に円窓の作品も個展を重ねて20点ばかりになるという。背景の漆の黒も年々深みを加え、花たちはますますあでやかで神秘的なたたずまいを見せてくれるようになった。いつかまとめて格天井のように展示したいと思っている作品群である。昨年から描きだした菊の絵の、闇に溶けいるような葉には凄みすら感じられた。このまままっすぐ思うさま描くうち、きっと画伯しか描けない境地が出てくるに違いない、と思わせて余ある絵だ。もっと奥へもっと奥へと、私たちをいざなって欲しい。優雅さの底から、生命の不思議へと導かれ画伯のまなざしはいよいよ深くなっていく。

落合浩子展ー祈りの人

一年半ぶりの落合浩子展ーストイックなまでに絵肌を研ぎすました作品たちがまた画廊に並んだ。
「祈りの人」ーーここ数年画伯の主題として「祈り」が表現されている。半眼の目は遠目には閉じられているように見えるが、近くに寄るとかすかに開かれた目の際に金のラインが施され、なんとも神秘的な目の色がうかがわれる。自分の内面を覗き込んでいるかような、放心しているような、一心に祈りを捧げる表情に俗なものはない。
一年半から二年の間隔をあけて今回は五度目の個展。創画会での発表も含めるとかれこれ十数年仕事ぶりを見せて頂いているが、懈怠も慢心もなく心の命ずるままに作画を続けてきた印象である。
2000年「passage」と題した最初の個展。通底する静謐さにちがいはないが、以後画面は緊密さを深め、人物たちの顔や手が何かから掘り起こされたように露になってきた。
前回、目鼻もくっきりと描かれた横顔を披露。今回は真正面から祈りの姿をとらえた作品が秀逸だった。絵の具で象嵌されたような人物の表情が、深い黒のなかから浮かび上がる。すでに生身の体を越えて、精神の結晶にまで昇華された姿だ。なにか尊いものに捧げられたような象徴的な作品ともいえる。一筆一筆を重ね、どのくらいの思いをここに込めたのだろう。
画伯の遅々とした作画の歩みは、呼吸の速度と無関係ではあるまい。緊張したりあせったりして呼吸の早い時に描ける絵ではない。 見るこちら側も呼吸を合わせてみる。体の奥底にある時計が動きはじめ、眠らせていた記憶のどこかがはじけるころ、もの言わぬ絵が何かを語りだす。
落合画伯の作品はそういうスイッチを内在させていて、見た目より手強い。透徹した意思ともいうべきものが、一見暗い画面を暗くは感じさせないのだ。重すぎも軽すぎもしないが深い。「祈り」とはそういうものなのだろう。
困った時の神頼み専門の悦子は少し反省し、この境地に早く至りたいものと引っ越したばかりの家にもれなくついていた神棚に手を合わせた。
落合画伯は初日のあと一日在廊、一旦京都に帰って、31日からまた上京予定。お留守中にいらした方々ほかの画像をみながらきっと悔しがるに違いない。

長谷川裕子展発進!

桂の木を彫刻した長谷川裕子氏の人形展が今日から。1960年栃木の小山生まれ。創形美術学校で油画を学ぶとともに、四谷シモン氏の主宰するエコール・ド・シモンで人形作りを学び、卒業後は人形作家として個展やグループ展など全国で発表を続けている。
そんな彼女に転機が訪れたのは2000年。どうしても木で作品が作りたくなったのだという。一から木彫を学び直しコツコツ作りためた作品を今回一堂に展示している。
今回のテーマは「橋の上の子供」。展覧会にあたり、彼女が書いてきた一文をご紹介しよう。ーー子供の頃住んでいた家と学校の間には川があった。家のある側と学校のある側のちょうど真ん中にある橋。守られている世界と外界の世界の真ん中の場所  幼い日の思いを重ね『橋の上の子供』というタイトルにした。  個人的な郷愁に留まらず誰の心の奥底にもあるようなせつなさを人形に投影したいとおもっている。ーー
生まれ育ったところにある川は「思川」という名。幾度となくこの川にかかる橋を往来しながら、初めて内側と外側を意識したのは幾つの時のことだったろうか。橋は二つの隔たる世界をつなぐ架け橋であるとともに、外界を意識させる装置でもある。この橋の合間にいて行くもならず帰るもならず、途方にくれる日暮れー子供たちはその下に逆巻く水流をみて、はじめて孤独ということを知るのではないのか。
自分で歩かないと渡れぬ川。エイっと目をつぶって渡る橋もある。がんこに口をむすんで立つ彼女の人形たちは満身に決意ににたなにかを漲らせている。「人形」という言葉が醸す甘さではなく、あえて「ひとがた」と呼びたいような実在感に彩られたその世界は、自身で語るように泥のついた野菜の野太さに近い。そのごろごろとした手応えのある子たちの醸すせつなさはなんとしたことか。
これらは子供ゆえに知る悲しみをまるごと抱きしめたいと願う心が作らせた作品であり、作者もまたその光と闇を今も抱え続けているに違いない。今展を見てそんな思いを抱いた。桂の木を丹念に彫りあげながらその中にある無垢なものを拾いだしたーその重みを手に感じてほしい、と願う次第。

 

特報!イベリコ豚いよいよ上陸!

突然ですが、ここで明日の開廊10周年記念スペシャル、イベリコ蓋祭りのご案内を。

明日五時より

 

、専門シェフにより入刀。36ヶ月熟成、末端価格数十万の豚の解体薄切りショーが行われる。7キロの巨体で悦子の太もももかくやの品につき、堪能めされよ。海よりも深い皆様方へのお礼にはいささか足りないが、悦子のすねも一緒ということでお許しを。以下、その効能書き。
スペイン・イベリア半島原産種のイベリコ豚は、古代に棲息していた野生種の豚の子孫です。黒っぽい毛と皮、細長い足と黒い蹄、どんぐりを求めて歩き回るため筋肉に脂肪が霜降り状に混ざっているのが特徴。コヴァップではイベリコ豚を、アンダルシア地方コルドバ県の北部、ペドロチェス・ヴァレーの名で知られる世界最大のトキワガシの森である「デエサ」(スペイン語で牧草地の意味)で、伝統的な粗放牧畜法に従い自然飼育しています。200万ヘクタールの広さがあるこのデエサは、常緑樹と落葉樹のオーク(ナラ類)が点在する生態系であり、ハーブや穀物が自生する、特殊なアグロフォレストリー(

農牧林業融合)システムです。どんぐりが大変豊富なこの生態系では、イベリコ豚は欠くことのできない重要な構成要素となっています。ていねいに育てられたイベリコ豚は次の過程を経て加工されます。まず、生のモモ肉を短期間塩の中に漬け込み、その後、塩をていねいに洗い流したあと、塩を肉の内部に浸透させるために、重さに応じて40~60日おきます。次に、天然の乾燥室で自然乾燥させてほとんど水分のなくなったハムを地下室に吊るし、丘の上の清涼な空気にさらして長期間熟成させ、ハムの旨みと香りを引き出します。このようにコヴァップでは、豚の誕生から飼育、飼料の生産、放牧、屠殺、ハムの製造までの全工程を自社によって行っています。また、スペインに数あるイベリコ豚の産地の中で、ペドロチェス・ヴァレーは認定されている4ヶ所のイベリコ豚のDO(原産地呼称)のひとつとなっています。100%どんぐりだけを飼料に育てられたイベリコ豚で作られる、イベリコハムの最高峰です。熟成期間も36ヶ月と長く、これによって上質な脂と独特のふくよかな香り、口中でとろけるような味わいが生まれます。

 

柴田悦子画廊ー十年の歩みを展観

お蔭様で十執念(周年)年間が最後の追い込みに。21日には11年になるカウントダウン記念パーティを控え、皆様に感謝しつつ粛々と十年の歳月からなる作品を展示した。感無量のメッセージに先駆けて、届いたお花からご紹介を。

日本画は宇宙を描くー内之浦絵画コンテスト受賞式

庄漫嬢の初個展無事終了の午後六時から、池下画伯の「はやぶさ計画」を描く展よりご縁のJAXA(宇宙航空研究開発機構)主催・「日本画は宇宙を描く」内之浦絵画コンテストの授賞式に伺わせていただいた。
詳しくはhttp://www.jaxa.jpにて公開中であるが、日本画と宇宙という思いがけない組み合わせの今展が初の試みを寿ぎ簡単なご紹介まで。
この企画は、海と山に囲まれた風光明媚な内之浦の自然と内之浦射場を中心に、その発射の現場の印象を日本画で表現してもらおうというもの。実際のロケット発射に立ち会うという機会もまれだが、今回は特にそのふところ深く入ることが許され美術と科学がリンクする稀有な機会となった。審査は多摩美大教授・本江氏と中野嘉之画伯・JAXAの的川教授が厳正に行い、以下の方達が初の受賞者となった。
最優秀賞(1点)今川 教子(いまがわ きょうこ)静岡県静岡市 在住 京都造形大卒 優秀賞(2点)中嶋 安階(なかしま やすたか)京都府京都市 在住 京都芸大卒 熊谷 曜志(くまがや ようじ)愛知県愛知郡長久手町 在住 愛知芸大卒 審査員特別賞(1点)田中 敦子(たなか あつこ)山形県西村山郡朝日町 在住 東北芸工大卒
作品展示は以下のように。
展示期間:平成19年2月3日(土)~2月28日
展示会場:宇宙航空研究開発機構東京事務所情報センター JAXA i(東京駅丸の内オアゾ内)
今日は各地から集まった喜びの受賞者の画像と、展示の情報を急ぎ。ご興味のある方は是非。また今年は月に衛星を打ち上げるーセレーネ計画ーも。20字のメッセージを月に運べる「月に願いを」キャンペーンも前述のjaxaホームページで展開中につき合わせてご覧あれ。

庄漫メゾチント版画作品展

上海から日本に留学して7年目になる庄漫さんが、卒業後初めての個展を開催した。1972年上海生まれ。ご両親とも歯科医師という環境で、大学も歯学部、卒業後は有能な歯科医師として国営病院に勤務していた彼女が、一転次の世界を目指して来日したのは2000年のこと。
以後日本語習得のための期間を経て文化女子大造形学科へ。その年始まったばかりの版画の授業で恩師鹿取教授に出会い、ここから庄漫さんの取り憑かれたような版画人生がはじまる。
中国でも日本にきてからも彼女の前にアートという選択肢は無かった筈が、一度版画刀をにぎって以来離せなくなったというから運命的だ。
並外れた観察眼と集中力、繊細な感性を合わせ持つ彼女が選んだ技法はメゾチントという銅版画。腐食を必要としないが細かな手数がかかり、現在では機械で版の下地を作ることが多いという。華奢な印象の彼女だが、最初から手で丹念に線を刻みマニエール・ノワールともいわれるメゾチント特有の深い黒をだすべく努力している。
今回は在学中に描いた白と黒の造形と、最近取り組んでいるカラーメゾチントの作品数点を発表。夢中になって版に向かってきた四年間の歩みを見渡せる展示となった。鹿取教授は彼女を中国ではまだ普及していないメゾチント技法の啓発者とするべく、厳格に基本を仕込んだというが、彼女はいとも軽々と教えを吸収し驚くべき進化を遂げている最中とか。
いよいよ自分の表現を究めていく入り道にさしかかり胸をどきどきさせながら初個展を迎えた庄漫さん。おっとりとした口ぶりからはこの密度ある作品世界は想像できないが、一人自室にこもって制作三昧の日々ときき、不思議な静けさにつつまれたこの濃密な黒は、深夜の「花」との語らいがもたらしたものだろう、と納得した。
幸い、大勢の応援団の祝福をうけて船出した庄漫さんの今後の仕事をこれからまた楽しみに待たせていただこうと思っている。

美崎光邦 陶展

 

新春第二弾は、現代陶芸の鬼才・美崎光邦氏による陶展。前日の14日早朝の時間帯に放映された「器夢工房」では今展に出品の作品が詳しい解説つきで。八街のピーナツ畑を背に悠々と制作に励む美崎氏の日常はまさに修行僧のようだが、会期中は解き放たれて融通無碍の境地とか。
日本工芸会正会員。日本伝統工芸展奨励賞や日本陶芸展最優秀作品展秩父宮賜杯など数々の受賞歴を誇るも、それに安住する事無く新たな作風を模索し続けている希有な作家だ。
特に50歳以降、今までの厳正なフォルムの追求から、原色のガラス釉を施したおおらかな作風へと大きくその軌跡を飛躍させた。その間、何があったかここでは語らない。しかし、自作の模写を厭い次ぎの創作に向かう意欲のなかにこそ彼が「生きる」意味があった。惜しげもなく確立した作風を離れ、もっと豊かに、もっと大きく、もっと美しくと試行錯誤を繰り返してきた年月だったと思う。
その変転の時期と、画廊の立ち上げの時期がリンクし1年おきの個展の度に驚くような作品たちと出会わせてもらってきたのは、生きている作家とつきあう妙味というもの。
今展ではいろんな進化や冒険が、前からの仕事と擦り合っていいバランスでなりたっている。静かだけれど豊かな景色の陶達。しかし近く寄って覗き込むと器のなかには、ガラスの釉の華麗な貫入のモザイクが。外側のストイックな硬質さと中側の柔らかな釉の流れが、美崎氏特有のシャープな口辺を境に共存する妙をとくとご覧あれかしとお薦めする次第。
人生ますます佳境の美崎氏のお人柄を反映して、お客様も濃い方がたがぞくぞく。写真家の藤森武氏とはご縁の白州正子論を熱く語り、陶友の御大・佐伯守美氏などお仲間たちとも丁々発止のやりとり。まるで青春ってやつが今真っ盛りのようなご様子に来合わせたご子息も驚くばかり。
また、悦子関係では元有能スタッフのならこ、こと奈良橋優ちゃんが婚約者の方とご来廊。3月に結婚して4月にはデトロイトの赴任先に出発とのこと。にゃ~!おめでとう!いつか来ると思っていたよ、こんな日が(うるうる)。よかった、よかった。で、画像にアップーいったいどこにいるでしょう、なら子画伯を射止めた幸せな方は‥。

堀文子教室同窓展プラス新年会

2007年年明け第一弾は、なんと恩師堀文子先生を囲む同窓展。昨年先生の米寿のお祝いの席で、このような事ができればいいねと夢のように語っていたことが実現し、先生はじめ先輩たちに大感謝!。新年会かたがた作品を持ち寄ってかくも盛大な同窓展となった次第。先生に何十年かぶりに作品を見て頂いた面々は、その段になって急にどきどきしたらしく、うれし恐ろしの一瞬を。
データの都合で一部しか画像がご紹介できないのが残念だが、一枚として同じようなものがないマイペースさが堀クラスの真骨頂。先生も「わたくしのクラスらしい」と褒めて(?)下さった。また、絵ばかりでなく陶や漆など工芸の道を歩む方や実業方面で活躍される方も多く、多彩なその後を一晩語り尽くしたことだった。
もちろん先生はお米の流動食ーとびきりの越後の銘酒はまたたく間に消え、卒業後の歳月もまた。
お目にかからない時間にも、教えを受けた一言一言がそれぞれの胸に生きている。出会った生徒一人一人のやりたい方向の芽だけは摘まないで来たつもり、とおっしゃる先生の言葉が今になってまた迫る。ご縁あって堀教室に集った同窓4期の面々は、人としての基本を四年間みっちり教えていただいた。絵よりも前に大事なものがある、それを各自が見いだすのをかくも長い間待っていてくださったのかもしれない。
先生を囲む今展を喜んだのは、出品者本人ばかりでなくご家族までも。遠く京都は丹後から車で来て下さった岩田氏のファミリーを画像で。また、すでに空になった流動食の瓶を抱えつつ、新年のご挨拶を!


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