男の墨・女の墨二回展が始まった。昨年の初回にどんなことを書いたか念のため調べたら、何やらもっともらしい事が書いてある。重複する事柄なので初心を以下に記してみることにした
Gender series と銘打っての初回、「男の墨・女の墨」展を開催した。そもそも「墨」を使う画家が多いなかに、男と女で墨に対する姿勢が違うと感じたことが始まりだった。当画廊の扱い画家たちで、一度その比較が出来ないかと声をかけてみた。
Genderとは簡単にいえば社会的な意味での性差をいう。ここでは「墨」という書画にとってなくてはならない素材を対象に「男の墨」と「女の墨」と違いをみてもらった。
十数人の作品が並ぶため、男性作品の壁は黒くした。そのためもあろうが作品たちは厳しく緊張感に満ちたものに思われ、一方女性作家たちの作品はとらわれのない自由なものと感じられたことだった。
もともと中国の書画に影響を受けた日本の「墨」作品は長い時間の間に独自の発展と遂げて来た。唐渡りのものを取り込み手本としながら、宗教や文学、思想と軌を一にして進化し、固有の美意識を披瀝するものとして一段格の高い扱いを受けてきたように思う。
一枚の書画に世界観、宇宙観が込められている、というのは勿論理想とするところだが、汲み取るべき美意識は描き手や時代とともにその衣を変える。 維新以降、また戦後以降の前衛の試みはほとんど男性画家たちの仕事である。「墨」もどちらかといえば男の嗜み。
ところが、今や歴史に例のないほど女性画家たちが活躍している時代だ。「をとこのすなる」墨絵だって、ほとんどタブーを考えることなく果敢に挑戦。世界観を考える前に、描きたいものを描きたい、という欲求に従って使っている。下手も承知のコンコンチキ…といえば少し大げさだが、墨という大きな素材を自分の作品に必要な一つの材料として見ている、というところか。
一方、これまでの歴史を背負う男性画家はそうはいかない。入念に腕を磨いたうえ作品に世界観を構築していく。また世間の目も厳しい。へなちょこな墨を描いたら笑われるのである。力が入らない筈はない。
このような社会的な違いと使い方の差はあるけれど、「墨」は画家を魅了してやまない。また今回の作品はどれも私が心のなかで「名品」と名付けている品々。敢えていうまでもないがそれぞれの画家が、「墨」と格闘してできた作品たちである。それぞれの性差のなかに、自分しか描けないものを描きたいと念じた画家の自画像と思って展示させていただいた。
画家それぞれの「墨」を出会わせる機会は、団体展でもない限りなかなかないもの。「墨」という共通項のもとに年齢や性別を超えた研鑽の場があればと思い、今展を立ち上げた次第である。
いかがであろうか。趣旨は前回と一緒だが、今展では「女の墨」のボリュームをアップし、新恵美佐子・林典子の両人にお声をかけた。またニューヨークで発表した浅見貴子の作品も展示し赤い壁面にかけてみた。その結果ひとつの面白い現象がわかった。男の墨は黒く、女の墨は白い、ということである。同じ墨といっても、墨の部分と紙の部分の比率に差がある。今展の偶然の所産であるのか、その空間意識の違いなのか、一概にはいえないが、壁面を赤く覆ったことでその違いが見えて来た事が興味深かった。今展では男組に、中国の水墨画の俊才・朱海慶に加わってもらったことで深みが増した。来年は新作を揃えて、さらに鎬(しのぎ)を削ってもらおうと思っている。