個展

線と余白の間「再び」-それぞれの結界

7.13(月)〜19(日)

4月8日の緊急事態宣言を受けて中断した展覧会の再展示です。

本展はかねてから「線」に卓抜な才を示している画家に「余白」の意識を問う展覧会をしてもらうべく準備してきたものです。

足立正平
立尾美寿紀
佛淵静子

独自に活躍する画家たちが、自分の結界をどこにどう結んでいくのか、比べてみることで更にそれぞれが際立つ事を企図しました。

以下、案内状に寄稿して下さった亜細亜大学准教授・立尾真士氏の一文を添えます。

絵画の「はじまり」とはいかなるものか。あるいは、はじめられた絵画に「おわり」はあるのか。
ともあれ、まずは線が刻まれなければならないだろう。原初が空白だとするならば、そこに線が引かれたとき、絵画は開始(はじまり)を迎える。点と点を結ぶ線がひと筆、ふた筆と延ばされ、交わり、ときに消され、重なり合う。幾多の線の複層が、界域を生む。
しかし、かたちづくられた界域が線に
充たされることは、ついにない。線を描き、界域をつくりだす筆はまた、余白を生み出す。空白に対峙し、作品の完成(おわり)へと至るために開始(はじまり)の線を刻む画家は、ひと筆ごとに、原初の余白を縁取るのだ。とすれば、絵画を眼差すときに私たちもまた、界域をかたちづくる線と余白のあいだの、そのたびごとの「はじまり」に邂逅しているのである。
三人の画家がいる。画家によってひとまずのところ完成(おわり)とみなされた作品たちは、それぞれが線と余白によってかたちづくられた界域である。と同時に、それぞれの界域が交叉し、結ばれ、或いは分け散じるとき、そこにまた線と余白があらわれる。それらの線と余白のあいだへと誘われた私たちは、新たな原初(はじまり)の痕跡に触れるであろう。
絵画の界域が、空け開かれる。

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