個展

平野俊一展 in the garden

平野俊一の満開の桜が画廊いっぱいに広がった。今年は花冷えのことが多く爛漫の桜もどこか白々と見えたが、八重桜の咲き始めた画廊の前の通りに呼応するように平野桜はピンクに輝いて来る人たちを喜ばせている。
2002年から定期的に個展発表するようになった平野は、雨や雲など気象をテーマに一時も同じ姿を留めない空気を描いて来た。近年は身の回りに咲く花を取材し、輪郭の不確かな「存在」としての花を、丹念に集めた画像と自身の記憶により再現している。
ある時眼鏡を外して見た花が、輪郭やディティールを失って不思議なリアリティのある「存在」として立ち上がってきたという。その時の驚きそのままに今わたしたちの前にある「さくら」は、見る人の「さくら」の記憶とも繋がって見事に「あぁ桜ってこうだよね」と思わせてくれるのである。
世の中に桜の名画は数々あるけれど、平野桜は名もない分だけ、各自がそれぞれの心に秘めている「さくら」の記憶を引き出してその気分を再体験できる希有な「さくら」なのである。
大振りな花の下で溢れる春の気分を満喫して花見の宴を行う。日本人ならば物心つく頃からこのどこか浮かれた、しかしどこか儚い季節を体験してくるであろう。平安の歌人も室町の隠者も天下人も江戸の熊さんも、同じ花と季節に酔いしれた。こんな国が他にあるだろうかと毎年の巡りの度に思う。
いささか話はシリアスになるが、特攻隊の方の辞世とされる「さくら散る 残るさくらも 散るさくら」という句にあらわれているような死生観が華やかな宴の背後にあればこそ、このひとときを全身全霊で楽しもうとするのではないか。この世のものとは思われぬような「花」が一斉に咲いて一斉に散る。念仏のように掲句を口ずさみながらさくらを見ていると、花びら一枚一枚と命が重なって人の巡りを思わずにいられない。
そしてまた、お約束のようにソメイヨシノが散ると八重さくらが咲き出す。これはぽってりと妖艶な遅咲きで、宴果てた人の心にぽっとまた灯を点すのである。この見事な連携は一体誰が考えたのであろうか。
平野俊一は今展でこの桜花に深く分け入り、雲のように捉えどころのない茫洋とした花の有り様と、まさに今朝ひらいた花弁のみずみずしさを同じ画面に共存させるという離れ業をしてのけた。たしかに人間の目は花の細部もかたまりも同時に認識するものだが、表現する段になるとどちらかに偏って矛盾のないように整理しがちだ。だが、平野は目に見えるままある部分は詳細に、ある部分はおおまかに、見事な緩急をつけてこれを表現した。平面を3Dで現したようなものである。おおまかに見せながら画面のすみずみまで配慮がされている、この視点の複雑化は平野の独壇場ともいえるだろう。
画家に専念するまえ平野は建築のパースを描くプロとして細かい図面と取り組んでいた。その反動ともいえる輪郭を失った描写であったのだが、そのなかにあっても微妙な神経は潜んでいて、大画面の遠近のバランスにその培った実力をいかんなく発揮している。
一見、なんでもないようでいて何故か引き込まれる理由は、この矛盾をみせないバランスのよさによる。さらにいえばそれ以上に、この花たちの美しい夢のような有りようが私たちをして「春の気分」に浸らしめるのである。
この季節にふさわしい、まさしく豪気なIn the gardenであった。

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