個展抽象画

押元一敏展

2000年の展覧会以来、十年ぶりの展覧会が今日から。
押元一敏(おしもとかずとし)は1970年、千葉県生まれ。1995年に東京芸術大学美術学部デザイン科を卒業し、’97年には大学院修士過程を修了、2000年に博士後期課程美術専攻満期退学した。その後2001年から’04年まで母校の非常勤講師、’04年から’07年まで常勤の助手をつとめ、現在は非常勤講師である。
’95年の学部卒業時には優秀な学生に贈られる安宅賞を受賞、同年から個展やグループ展など旺盛な活躍を始め、修了制作にはデザイン賞、’98年には三渓日本画賞展大賞を受賞するなど、華やかな存在として知られている。
東京芸大のデザイン科に在籍していた頃はアクリルと岩絵具の併用で制作していたが、徐々に膠の魅力に惹かれ和紙に岩絵具という日本画の手法を選んで今に至る。
もともと琳派などは意匠的な発想から生まれたものだけに、デザインと日本画は切っても切れない関係にあるが、芸大のデザイン科に日本画を描く学生が多くなったのは、押元が在籍当時に日本画家の中島千波先生が赴任した頃からと記憶する。洋画家の大藪雅孝先生と日本画の中島千波先生という優れた画家のもとで、助手や講師を勤める経験が、押元の作風を多様なものにしてきたのだろう。初期の人物や心象風景に留まらず、花鳥や静物などにも果敢に挑んできた。
近年は日本の仏教美術や世界の宗教美術の世界へと分け入り、そのフォルムからインスパイアされた作品を多く描いている。特にロマネスク美術の彫刻、ビザンチン様式のモザイク画、イコンに強い興味を示し、その精神性を学びつつ自己の表現へ昇華すべくさまざまな試みに挑んでいる。
今展もその一環で、「天使像」のトルソを連作で描いた。トルソとはご存じのように頭や手足がない胴体のかたち。天使には普通「天使の輪」がつきものだから、随分思い切った省略をほどこしたもの。前展では、大天使ミカエルなどその形象も意味も明確にわかるものを描いたが、描いているうちにどんどん抽象化が進み究極のトルソにたどり着いたのだそうだ。
まるで今日発掘された遺跡のように、わずかな光をまとうだけでそこにあるものたち。絵具を盛り上げ、削って線刻し、また色をのせる。何度も繰り返されたこの行為によって、何世紀もの時間によって風化したような印象の絵肌になった。
彫刻をつくるつもりになって描いた、という。十枚の連作も少しずつ色も形も変え、画面を刻んだ。天使の象徴とした「羽根」も形を最初から決めずにゆるやかに描き進めた。人体に羽根という形象は洋の東西を問わず、人間と神界をつなぎ、自由に往来する象徴として神話には必ず登場する。それを「ぎりぎりまで削ぎ落としたフォルム』の一部として描いたのには、羽根の象徴としてのオーラに思いを託すという意図によるのだろう。
画家としてこれから飛躍する時期を迎え、まず自身の内在する志向をつきつめたいとこれらのトルソに向かった押元一敏は、制作のなかで静かに「自分の天使」像を見つめ続け、抽象一歩手前までシェイプする作業から一番フィットする自分の色と形を見つけた。
あらためて聞けば山口長男やマーク・ロスコなどの仕事からも刺激を受けるのだとか。柔らかく全てを受け止め、自分の心にかなうものを時間をかけて選び、ためらいなく描く―おだやかな押元の人柄を思う時、その底にここまで何かを希求する強さがあるとは驚きだが、だからこそ順風満帆のこの時期にここまで冒険をするのだろう。
この仕事の舞台として選んでもらったことをうれしく思う次第である。

押元一敏展” への1件のフィードバック

  1. 押元先生、こんにちわ。
     私は先生の学生になりたい留学生で、ソウ イギョウと申します。
    2015年に中国美術学院を卒業した後日本に来ました。今まではもう一年半過ぎで東京に住んでいます。
     先生と連絡取りて作品と研究計画について指摘をもらいたいと思いますが、学校のウェブサイトでどう調べても先生の連絡先をアップしてないそうので、失礼を知っていますが、どうしても先生と直接話したいと思うから、しょうがないでここで先生にメールを送ってみるかと思っていました。
     よければ是非、先生と会うチャンスをもらっていただけませんか。いつても恐れくお待ちしております。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です