個展抽象画

直野恵子展ー9回目の個展

直野恵子のこつこつ重ねた歩みも今年で九回目を迎えた。おー九回目か、と改めて直野恵子の愚直ともいうべき努力を思う。
1997年の開廊時にはまだ女子美大の学生だった彼女が、2000年の「文月展」でグループ展デビュー。翌年から個展の道中となった。初個展の時には、緊張のあまり顔もあげられず具合が悪くなって帰ってしまったことも。
真剣なその制作姿勢は今もかわることなく、悩みつつもその歩を進めている。画廊の看板の字を揮毫して下さった工藤甲人先生のアトリエは「蝸牛居」といい、そのいわれを尋ねたところ42歳でようやく上京し画家として立った遅蒔きの自分に、蝸牛の歩みをなぞらえ漢詩「百尺竿頭進一歩」の「遅く見えてもいつの間にか百尺を渡っている」という気概を託したのだという。
直野恵子を思うとき、いつもこの先生の言葉が浮かんでくるのは何故だろう。おそらく迎合ということをしらず、ひたすら自分の心を恃んでその求めるままに歩む彼女の姿を、ただただ見守るしかないからだろう。そのかたくなな殻も内部の柔らかい感性も全てが絵に向けて集約されていることにある時はあきれ、ある時は感心してきた。
絵を描かずにはいられないこのモチベーションは絵描きには不可欠なものだが、それが外部に理解されるまでの時差はそれぞれだ。独自性と普遍性を同時に成り立たせることは実に難しい。
だが、直野が拘る世界観と詩情がひとりよがりにならず、見る人の心に届くまでこの歩はたゆまず進むのだと思う。そして九(十)年一日の如くの試行錯誤が今、少し道が拓けたようにみえる。今まで自分だけに向かっていた心が、外に開かれたような印象の絵になったのだ。
静かな霧が立ちこめる冬の情景に託した心象は具象にも抽象にも思え、美しい余情をたたえる。このなめらかで清い気配は、俗を嫌ってはいるが人を拒否してはいない。自分のエゴを消し去って無心に絵に向かった清々しさが人を誘い込むのだろう。
この一連の作品が九年目の成果というものだろう。そしてこの手応えをどう次の一作に伝えるか、いよいよ楽しみな十年目となって来た。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です