曽根隆一・深雪二人展「花巡礼」

曽根隆一と深雪夫妻による二人展が始まった。

奥様の深雪さんは、昨年のクリスマスに小番今袴さんと二人展を開催し、長年眠っていた画家魂がふつふつと甦ってきたらしい。写真をワイフワークとするご主人を誘っての夫妻展となった。 深雪さんは多摩美大日本画科卒で長らく教員生活をしてきた。その傍ら勉強したというセラピーの仕事を今も続けている。また、初めて絵を描く方のためにパステルを用いた絵画教室も開催するなど意欲的に啓蒙活動をしているという。

一方、ご主人の隆一氏は仕事の合間に素人離れした写真を撮りためていた。画像でご覧の通り、白黒の調子が美しい抒情的な作品である。聞けば機械マニアであり骨董のコレクターでもあるという。その審美眼とこだわりが、銅版画の如き黒の質感とクリアな精度を写真上に追い求めさせることとなったのだろう。三脚は使わず必ず指でシャッターを切る、というのも対象を撮る一瞬に自分の美学を入魂するという意味なのだと理解した。

ただ、こだわりのあまりそれを人に見せるという行為には及ばないでいたところ、深雪さんが二人展をと土俵に乗せてくれたのだという。真面目でシャイなご主人と会うのは今展が初めてだったが、その幅広い造詣には驚くばかり。

常に人の心に寄り添い、その人生と向き合う仕事をしている深雪さんのそばに、こういう含蓄のある方がいるのはむべなるかなであるが、作品上のコラボをするという関係になるとは昨年までは思っていなかったに違いない。

展覧会を開くという行為は、自分のアトリエの窓を開き、風を入れることだ。自分だけではわからなかった自分の姿を人の目を借りて知る。何を与え、何を与えなかったか、作品の持つ力を冷静に判断するチャンスでもある。

自宅内で完結せず、多くの目に作品をさらすことで自作がまた見えてくることがある。さらに踏み込んでいえば、見る人の目が作品を完結させるのである。この可能性を持つ人との出会いが展覧会の醍醐味といえるだろう。

骨董をよくする方ならば、「もの」と「ひと」との出会いの吸引力とでもいう何かを知っておられると思う。人の生み出したものが、人の何かを引き出すーということ。この出会いの瞬間こそが人生の妙味というもの。

「花巡礼」という大きなテーマでそれぞれの今を競作したお二人は、これからまたそれぞれのスタイルで自分の表現をされていくだろう。この「花」が大きく開いて色々な人に種を運んでもらえるよう、心からのエールを。

小林身和子展

久々に小林身和子が銀座に再デビューした。04年の個展以降、結婚、出産、子育てと女の大事業に励み、五年間ほとんどまとまって絵筆を取る時間がなかったにもかかわらず、初志をまげずこのたび前線に復帰したことをまずは言祝ごう。

1972年東京生まれ1999年に女子美大日本画科を終了。在学中から創画展に入選するなど旺盛に作品発表を続け、2000年には村越由子・直野恵子と文月展を開催。当画廊とはこれが縁で02年と04年に個展の運びになった。

以後、今展までの道のりは並大抵のことではなかったと思う。しかし、小林はそれすらも力に変えてみずみずしい作品を仕上げてきた。岩絵具を重ね、何層にも盛り上げては金やすりで彫り、磨く。傍らで子供が遊んでいるというが、本人も夢中になって絵の層を掘り進んでいるに違いないと思わせる。

絵肌はまるで荒い麻布。布目のような方眼状の彫りを丹念に施した画面は複雑な色目をみせ、下の隠された層を想像させる。岩絵具の重厚なマチエールを彫って磨き、さらに重ねて彫るという気の遠くなるような作業を進めるに従って、次第に作品に密度がましもうこれ以上手が入らないところまでやりたいのだ、という。

50号の「刻む」と題された作品には、古代の壁画のような線が残る。堆積した時代やその風化まで思わせる絵肌だ。何度も繰り返された塗りと削りが見る人の心象と重なる瞬間を待つのだろう。この線と層の中に分け入って自由に想像の羽を広げればよい。 白い紙を前に時間を刻み、記憶を刻み、全てを刻み込んで描いた今展の作品は5年のブランクを感じさせないばかりでなく、更に進化していた。ストレートに飛び込んでくる印象と純化された色彩。思うように動けない日々さえ栄養にしておのれの世界を深めていったのであろう。

大河のゆるく深く流れる水のように描き続けていって欲しいと思う次第である。

 

西村亨人形展 スーパ—ソリッドドールズ III

馬上のプリンセスを引き連れて西村享の三回目の個展が始まった。西村のマニアックともいうべきアメリカ60年代への偏愛に応えて、常磐茂氏が以下のような文を寄せてくれた。

西村亨作品の幅ーーこんどはおなじみの美女たちが、さまざまな動物にまたがって登場するという。それをきいただけで、なんだかサーカスの開幕を待つときのような気分になり、カタルシスさえ覚えてしまう。アフリカ象やガラパゴスゾウガメ、カバもいるらしい。言わずと知れた、絶滅危機動物。と、そうなってくると、これは考えるところもあるかなと考えたりもする。こんなふうに、少したってから、もしやと、かすかだがメッセージのようなものを憶測させるところは、ちょうど落語の考え落ちというのに似ている。また上質な喜劇作品につきものの要素でもある。登場人物個々の性格までわかる描写力にも驚くが、自由に想像させる許容力にもハッとする。どちらも西村亨作品の持ち味だ。

2007年の悦子画廊デビューから、連続三年続けた個展。今展では上記の通り、動物に乗ったドールたちが勢揃いした。

西村亨は1961年生まれ鎌倉で育つ。1987年多摩美大油画専攻修了後は、日本デザインセンターでイラストレイターの仕事についた。その後CG全盛の世相に反逆するように、リアルな手仕事にのめりこむようになったという。

もともとミリタリープラモに夢中な子供時代を過ごし、成長期にはテレビでアメリカのホームドラマや、ヨーロッパの映画等から大きな影響を受けたというから、制作の種は足下にあったという訳だ。 映画「アメリカングラフティ」にとどめをさすアメリカの黄金時代をアイロニカルに、またコミカルにドールに託して表現している西村の仕事は今展でまたバージョンアップした。

アルミ線を軸にスタイロフォームで肉付け、粘土で細部を仕上げたあと丹念に着彩という過程を経て完成するこれらドールたちは、小さすぎず大きすぎず絶妙なサイズをキープしているが、西村は今展で巨大化をもくろんだ。ドールを下支えする駆体に動物を選んだのである。しかも馬や象、カバやらくだにガラパゴスゾウガメという大きなものばかり。

往年のハリウッド映画を彷彿させる美女たちは、それぞれの物語を背負い遠い彼方へ目線を投げる。一見ありそうで、絶対あり得ないシチュエィションを作り上げ、クスリとくすぐるとともに圧倒的な存在感を示すこれらの作品は西村の面目をまた一新させた。

さらに得意のワザをくり出し、メッサーシュミットやジープを精巧に作り上げ、紙と粘土で鉄のさびや匂いまで写し取るという離れ業をみせた。これらデティールへの異様なこだわりは、このドールたちの存在する時代へのリアリティとなって西村の仕事を支えている。

時代はザ・ロネッツの BE MY BABY が流れる底抜けに明るい時代。ドールたちはみな遠くを見つめ、未来にも幸せしかないと信じていた時代だ。わずか10年にも満たないようなピンポイントの時代に、西村の全感覚は集中する。日本に生まれて、ブラウン管やスクリーン、ラジオの音声からアメリカを吸収して育った世代ーいわば戦後に生まれたものたちが無作為に享受したアメリカ文化が、今こういう形で凝縮されて出て来たことが興味深い。しかも、諸手をあげて礼賛している訳ではなく全くの皮肉でもなく。ただここに時代を取り出してみせているだけなのだ。

西村は「クールに」作っている、という。いたずらに思い入れることなく無心に細部を追うという作業の果てにでてくるもの。幸せな未来を追うように強い視線を投げかけるドールたちは、その先に待ち受けている不毛な時代をしるよしもない。

神 彌佐子展

神彌佐子(じん みさこ)による当画廊三度目の個展が始まった。

父方は青森の旧家とか、「神」という名もこの地方由来ときく。アラフォー世代と思っていたが、そろそろ後半らしいのでアラフィフ?だいぶこちらに近づいてきた。 それはさて、武蔵野美大日本画科を卒業後は創画会 中心に大作を発表してきた神彌佐子。エネルギッシュな造形力とともに、たぐいまれな色彩感覚を駆使した作品に魅了されて、2000年に個展を依頼した。マグマとブラックホールが同居するようなドラマチックな展覧会だった。その後04年の個展などを経て今展に至る訳だが、その間文化庁の海外研修でフランスに渡りロマネスク絵画の研究をしてきたという。

また出身校の武蔵野美大の通信課程や共通絵画分野で講師をするなど、教師としてもキャリアを重ね、その過程で日本画の技法の研鑽を重ねてきた。

これらの経験が、今まで以上に彼女の才を花開かせた。内部に鬱屈していたエネルギーが出口を見つけて奔流となったような色彩の洪水は、見事に制御されつつ有機体のようにうねりをみせる。特筆すべきは、そのたらし込みの技法の見事さだろう。色を重ねる際に、厚塗りするのではなく、水をたっぷり使い水を走らせてニュアンスを重ねる。ショッキングピンクや緑、あらゆる際立つ色も水の力によって下品にならないのが不思議。

ゆるくうすく画面を覆う水は、時に留まり時に流れまさしく「方丈記」の如しーゼラチンの質感から画想を得たという「geratinous」はグミというお菓子の毒々しいまでの色と触感のイメージに、メキシコやパリで買い求めた紙や箔をコラージュ。増殖していく細胞のような構成の作品に仕上げた。

今展では画廊に一足踏み入れたとたん襲ってくる鮮やかな色の乱舞に驚かれつつ、歓声をあげた方が多かった。こんなにふんだんなピンクの渦は日本ではなかなかお目にかかれない。渋さ、重厚さばかりが芸術ではないだろう。鮮やかで有機的な色のダイナミズムが人の心に衝撃を与え、カオスに引きずり込む。日常から非日常への異化が始まる瞬間だ。その裂け目をつくるまでが画家の仕事で、それから作品に何を感じるかは見る人の仕事だ。

この混沌に人はそれぞれの記憶をたどる。キャンディやチョコレイトの包み紙の醸すキラキラした夢を思い起こす人もいれば、盛り場のネオンを思う人もいるだろう。千差万別の思いが錯綜する万華鏡と化して、しばしも留まることがない。神彌佐子がねらい、自らを託すのはそういう磁場なのだろう。

たらし込みの技法もまた、水に行方を託す。どこに流れるかわからない偶然の営為をも取り込んで、薄く濃く思いを重ねて行く。一枚の絵に向かい、その一回性の戦いに挑み続けているのが神彌佐子なのである。

その行為は時に痛々しくもあったが、10年の間に少しずつ殻が剥がれ今展ではそれを謳歌していた。真剣勝負の楽しさに満ちていた、といってもいいくらいだ。イチゴやパパイヤなど果物をプレスし、原形がわからなくなくなったものを再構築していくという作画で描いた小品たちも楽しいインスピレーションに満ちたものだった。

単色でみれば毒々しい色も神彌佐子の魔法にかかれば、なんと魅惑に満ちた色の連なりになるのだろう。天性の色感にいっそう磨きをかけ、透明感を増した作品たちはそれぞれに響き合って光を放ち画廊中に充満する。

「わたしにとって制作はダイレクトな身体表現である」という神彌佐子の真骨頂は、見た人の脳髄に直接響くストレートさがあることだろう。理屈抜きに反応する感情、あるいは理不尽な情動を人は制御していきている。その間隙を縫って神彌佐子の作品は飛び込んでくるのだ。判断以前の直感を呼び覚ますー嗅覚や聴覚に近い反応を視覚であらわす、という仕事なのだと思う。

このアマノウズメノミコト的乱舞に堅い扉も「ひらけゴマ」。姓が「神」名が「ミサ」というのもうなずける次第というもの。ご見物衆は如何ご覧いただいたであろうか。画像はご来廊の方々の一コマご紹介まで。

 

安住小百合・林茂夫展

安住小百合とご夫君・林茂夫の二人展が始まった。

2000年から毎年当画廊で個展開催の安住小百合は、’82年多摩美大大学院日本画科を修了すると、主に日展を舞台に発表し始め、郷里宮城の河北美術展では各賞を受賞するなど旺盛に活躍。その後結婚と出産・子育ての時期を経て’00年から本格的に個展に挑み始めたという経緯を持つ。お二人のお嬢さんを育て上げ、画家としてのみならず女性としても豊かな人生を送ってこられた訳だが、いよいよこれから全開の画家生活を迎えるにあたり、今展では今までバックアップに回ってくれていたご夫君・林茂夫の仕事をあらためてご紹介し、それぞれが一個の作家として次のステップに繋がる契機としていただく事を企図した。

林茂夫は山梨に生まれ、早稲田大学では日本史専攻。その当時は抽象の油画を描いていたそうだ。その後銅版画なども手がけていたが、一家の柱として塾の経営に専心。チーム林としては、安住小百合をバックアップすることに徹して来た。

その間、野山の草花を取材する安住に同行して山へ出掛け、山野草を見る機会が増えるにつれ持ち前の絵心と探究心が芽生え、植物図鑑を片手に撮影し記録することに夢中になったらしい。折からコンピュータグラフィックスの技法もマスターした頃で、ここから一直線に作品化がはじまつた。もともと油画と版画の素養があったところへ、パソコン上の細かい作業が苦にならない性質があいまって、CGという新しいジャンルでの制作を一人静かにコツコツ続けてきたという。 同じ素材を取材しても作家の目と手が違えば、全く別の作品になるのは自明の理ではあるが、日本画という千年の歴史を持つ技法と、最新の機材によるおそらく一番新しい技法が「植物譜」という共通のテーマで競演されるというのは非常に画期的な試みではないかというのが、一つの狙いでもあった。

期待にこたえて安住小百合の岩絵具と金箔と漆黒の世界はあでやかな中におだやかな気品をたたえ、林茂夫は油画の明暗のメリハリと版画の技法を取り入れた構成のモダンさが光るクールな画面を作り上げた。 ただ双方とも「植物」へのなみなみならぬ愛は共通し、それぞれにここから広がって自分の高みを目指していくのだなぁとあらためて感得させていただいた。

一枚の葉のなかに宇宙があるーと看破した小倉遊亀先生ではないが、その中に没入してそこを生きる人にしか見えない世界がある。何を求めて人は描くのか、一本一木の草花が私たちに語りかけてくる事は多い。この二人もまたその「命」の根源にふれたいと願う人たちであろう。

会期中、そんなお二人の応援団の方たちがたくさんご来郎下さった。この「植物譜」の種が、この大勢の方に運ばれてあちこちに芽吹きますように心から願ってやまない。

 

清水研二朗展

清水研二朗の銀座デビュー展が始まった。

清水は1976年京都生まれ。約一年の渡仏を経て、2001年に多摩美大日本画科を卒業している。在学中の2000年に都下鷹の台で初個展、2002年に神田で個展の他、グループ展や壁画制作など旺盛な活動をしていたが、その後仕事が多忙になってきたため一時発表を控えざるを得ない状況が続いていたという。 今展は実に七年ぶりの発表。また、描くテーマも大きく変貌を遂げての再スタートとなった。卒業まもなくの個展では人物の形を通して造形表現をしていたが、このところコツコツ一人で描いていたのは、蛙というあらたなモチーフ。もちろん蛙そのものというより、その形を借りて回遊式庭園や山水が描かれているわけだが、この大きな転回のきっかけとなったのは、沈黙の間に培った古典の勉強と、なりわいとしてきた造園の世界との出会いだ。

在学中にフランスに渡り、ヨーロッパ各地の美術を感得してきた清水が向かった先が現代美術っではなく日本の古典だったところがまず面白い。肌にあうか合わないかは実際に肌で感じてみるしかないが、結局のところ蕪村にいきついたのだという。水が添うように自分にとってすんなり落ち着く場所、またそれが一番エキサイティングなところでもある。自由自在な筆さばきの蕪村画は爛熟した江戸期の精髄そのものー古典の画集をめくる間にその芳醇さに気がついた清水の画想も自然その方向に傾いていく。
またそれを後押ししてくれたのが、仕事としている造園業の親方の姿勢だった。作庭といえば誰もが土の上の仕事と思うが、実は地面の下の仕事の方が大事だとその理を教えられたのだという。上が生気あるれているためには下の環境を整えるー逆に下が整っていれば上は自然に伸びる、という摂理は造園のみならず全てにあてはまることである。

これらの事を徹底的に体で覚えた清水は頭だけで考えることを止め、画想がリアリティをもつまで練りに練った、一見荒唐無稽に見える蛙式庭園「かえるもの」は、親方も驚く程よくできた庭園設計図だったことが一つの成果だろう。また私の好みでいえば、さらにそこから色んな計らいを取り除いて、空間が美しい「雫」が今展の収穫だった。綿布に薄く土を塗り、さらにそれを洗い、自然な古色を帯びた空間はどんな装飾より美しいと思わせてありあまる。しかも緑が清新で若々しいのが嬉しいではないか。

蛙の絵を描く前、鎌倉の自宅門扉にモリアオガエルがちょこんと乗っていたのだという。普通深山に生息する蛙であるが、この美しい緑を描かせるために姿をみせたのではないか、と因縁めかしたくなるエピソードである。

七年ぶりの個展を支えてくれた夫人の木下めいこ画伯やご家族、また親方ファミリー、ご友人などがご来郎下さった。これを糧にさらなる飛躍を願ってやまない。

尚、画像三枚目は19日に都心各地で行われたtokyo milky wayのイベントで、画廊の電気を消してろうそくで絵をみる光景ー怪しい一コマではありません(念のため)

男が描く男・女が描く女展

前回の墨展に続きジェンダーシリーズと銘打っての第二弾「男が描く男・女が描く女展」が始まった。
男組の大将は伴清一郎に、女組の姉御は松谷千夏子にと布陣も完璧!と思っていたところ、当の姉御から「え〜全裸シリーズ?」と聞きまつがい、、。ジェンダーですって!。
同性が描く同性ー異なる性がみるものとどんな風に違うのか見てみたい、と企画したが、ふたをあけたら男組は祭りモード。その晴れがましいことといったら前代未聞。一方、女子はクールにさっぱりきっぱり、取り立てて騒ぐ事ではありませんわ、と顔色も変えない
意図したことではないが、画廊上に一本の線が引かれたかのように、熱い男と醒めた女が火花を散らしている構図は非常に興味深いものがあった
男組組長の伴清一郎は周知の通り、童子をモチーフにして御伽草子の世界を描く油画家である。大和心を体現した童子は子供のなりなのに筋肉隆々。画家本人も日々肉体の鍛錬を怠ることのないますらおぶり。昨今の世相を怒りつつ、日本のあるべき男子のありようを絵に託して描く。散歩の度に愛でていたたんぽぽを、あるとき心なき隣人が踏みつぶしたのを「わしの大事なたんぽぽを粗末にして!」と悲しんだ心やさしいもののふである。
また久々にセルフポートレイトに取り組んだ平野俊一は当画廊でもおなじみだが、近年は花をモチーフに制作。かつてLABO展で描いた後ろ姿の自画像をもう一度、と依頼した。CG画像を丹念に描き起こす作業は、花と同じだが、自分の体がモチーフとなれば自ずから視点が変わってくる。1997作のリライト版は30代の凛々しい身体に草の影を重ねて入れ墨風に、2009年版はやや緩んだ肌色が艶かしい。
相撲の力士を描く木村浩之は、本場所ばかりでなく相撲部屋の朝稽古に顔を出し、精力的に男達の発する戦いの気を絵具に写し取っている。鍛えられた筋肉を持つ力士たちの裂帛の気合いが画面からのぼり立つようだ。
今展で初登場の勝連義也は沖縄芸大デザイン科卒、今も地元で制作する画家である。平井和正の幻魔対戦の表紙と挿絵でご承知の方もおられると思うが、銀座では初めてのご紹介となる。今回は糸満漁師や祭禮衣装の男たちをチョイスして展示したが、幻想的な女性像も得意として描いている。本来勇猛なはずのエイサーやハーリーなど祭りの男たちは、彼の手にかかると憂いを帯びて凄艶な伊達姿となる。鬱屈とハレが同居するもどかしさが美に変わる一瞬を狙っているようだ。唯一、漁師と描かれたきじむなぁ(沖縄のいたずら魔物)がいきいきと彼本来の無邪気さを伝えているような気がする。
さて、男組最後の画家は奥津直道。華奢な指からなぜこんなマッチョが生み出されるか不思議だが、ボデイビルダーもかくや、と思われるアニキたちが今展では風神・雷神となった。しかも雷神の手には鉄アレイが、、。こんなユニークな発想は奥津画ならでは。強烈な色気まんまんのアニキの背に花かごがあったり、なにか可愛い。サブカルチャー誌にカットなどを寄せながら、淡々と我が道を行く奥津のファンも多く昨年末には北斎のアニキ版のような作品がパリのエロティック美術館に展示されたとか。日本美術の古典を吸収しながら奥津の描くアニキ達はどこまでも飛翔する。
このような濃い男組を乾いた目線で茫漠と見つめる位置に女組代表姉御・松谷千夏子の描く女たち。何時にも増してクールなその目の脇にはかすかな涙のかけらが。でも、これを涙と思ってはいけない。なにせかけらである。いつの涙か判然としないしろものなのである。色々な記憶が風化してもうはがれ落ちそうなぎりぎりを松谷は描く。生なものは松谷の美意識が許さないのだ。そうやって記憶の底に沈ませ浮かび上がったかすかなささやきこそ松谷のリリシズムであり、強烈な存在感の所以なのである。女というのはここまでしぶとく見るかと思わせるリアリティが彼女の作品を立たしめている、といっても過言ではないだろう。
阿部清子もまた一撃で相手をリングに沈める。アラフォー世代の荒波を乗り越え、ようやく画家として獣道に乗りこんできたばかり。だが、気弱そうなその外観にだまされてはいけない。極端に単純化した筆ながら、一気に相手の心を射抜く作品の目ぢからはただ事ではない。哲学や禅に小さいころから興味を持ち、墨の絵に惹かれていたという。人間とは何だろう、という問いをいつも心に持ちながら自分の居場所を探して来た阿部が、自分を表現する手段として選んだのが女性像だった。おばぁさんから子供まで、自分を託すような気持ちで描いて来たのだろう。それが画面から溢れて人を立ち止まらせるのだ。
そして女組の最年少は佛淵静子。いつも友人のダンサーや画家仲間など気心のしれた人をモデルに女性像を描いて来たが、今展では教え子に制服を着てもらっての制作だ。先般の個展では看護婦の制服をきたモデルにダンスの動きをしてもらったもので見物衆の度肝を抜いたが、今度は女子高生ときた。佛淵の線は生真面目で清潔だ。丹念に繊細に形を追って硬質な透明感のある人物を描く。制服という一種特別な装置ともいうべきイメージの力を借りつつ、そこを突き抜けた人物の表現を目指す、理知的な描写でそれを裏切る人間の表情をとらえるところが面白い。
今展では異性だったらこうは見ないこうは描かない、と思われる視点をあぶり出したいと企図したわけだが、それぞれの作品を見ていくと、やはり同性ならではのありたい佇まいや姿があるのだなぁと思えた。本当に男らしい人は女性的なナイーブさをもち、本当に女らしい人は男性的な果敢さを持つ、という。男組は男らしさを描く事でより浪漫的になり、女組は女を描く事により、現実的実感を描きたいと願っているように感じたが、ご見物衆はどう思われただろうか。
ともあれ、世の中は男と女とプラスアルファ。バランスで成り立っているともいえるが、時にはそのバランスを崩したくなる時もある。絵画はそれぞれの画家の心から出て普遍に繋がるもの。それぞれが自由に心を広げて遊びたいものである。

小松謙一・藤森京子展ーアオゾラとガラスvol.2

小松謙一と藤森京子による日本画とガラスのコラボレーション展が始まった。このユニットで制作する『アオゾラとガラス』たちが今年も画廊にやって来てくれた。サーカスではないが旅する一座のように、決まった季節にやってきて、ポケットから「はいっ!」とアオゾラの詰まったガラス玉を取り出してみせてくれる‥。それを覗き込むとかれらの旅した一年の記憶が幾重にも堆積してきれいな層をなし、光に包まれて表れてくる、といった塩梅だ。
1959年生まれの日本画家・小松謙一は水の流れや雲の動きなど、一時も同じ表情を留めないものをモチーフとして、微妙な心の揺れなどを託して描いて来た。また余白を意識した空間表現でどこまで万象の存在の大きさに迫れるか、意欲的に大作に挑んでいることで知られている。
一方、藤森京子は1977年生まれ、小松と同窓の多摩美で工芸デザインを専攻し、卒業後は繊細なカットを特徴とするガラス作家として道を歩み出している。
常に新しい表現はないかと制作を進める小松が絵を立たせる事は出来ないか、と考えたのがそもそもの発端らしい。平面の限界を突き破りたいと絵の裏側を見せる工夫を藤森の仕事に託したという。和紙に重ねた絵具の層がガラスに挟まれて光を透過させる。岩の粒子の窓、箔の層、何層にも重ねられたガラスが鉄の台の上に直立する。 あるいは寄木細工のようにカットされては組み立てられた色の砕片による家。そして何よりもの収穫は、絵具が乾いては消えてしまう濡れた色をガラスに封じ込める事に成功したことだろう。
平面という制限を乗り越え、タブーをタブーと思わない果敢な挑戦はガラスという異素材と出会うことで、不可能と思われていたことを可能にした。のみならず、二人のコンビネーションはそれぞれの世界から違う魅力を引き出して、さらに別の世界へと向かおうとしている。
孤立した制作からユニットとして試行をはじめた二人の今回の仕事では、今まで材料を投げかけていた小松が初めて受け取る仕事をした。個々の仕事から派生して自分の仕事以上のものを相手から受けるーあるいは自分が与えるというのはお互いの信頼と尊敬がなければ成り立たない。その希有な関係があればこそのコラボレーションといえよう。
目指すのはアオゾラ。水や空気が単体では透明なように、日々の営みを一枚一枚ベールにして重ね、奥行きのあるアオにしていく。一個の作品を生み出すための葛藤や錯誤、発見や喜びを幾重にも重ねたさきに深みのあるアオゾラが生まれる。ガラスに重ねられる色彩もまた、そのアオゾラに至るための道しるべなのだろう。こうして気宇壮大な世界観を持つ小松謙一の中に潜む繊細なロマンティズムと、針の先ほどの感覚に耳を澄ます藤森京子がもつ不屈の合理性は一つの作品のなかにらせん状に絡まり、アオゾラの結晶として銀化していくのである。
そして今、ガラスを包んでいた風呂敷をひろげ、一つ一つアオゾラを取り出しては画廊に窓を穿ってくれた。日本画とガラスという異素材をさりげなくマリアージュさせてくれる額の役割にはさび色も美しい鉄。小松にアトリエを提供し、懇切に溶接やら腐食を教えて下さった鍛金家のご夫妻・市岡さんと留守さんもご来廊、出来映えを見て下さった。また、空手の上達のため見事ダイエットに成功してさらに美女度をあげたちさと嬢の鎖骨あたりには、アオゾラガラスペンダントがキラリ。わたしも小さな手乗りアオゾラが欲しくなった。みなさまはいかが?


小松謙一・藤森京子展ーアオゾラとガラスvol.4
小松謙一・藤森京子展ーアオゾラとガラスvol.3
小松謙一・藤森京子展ーアオゾラとガラス

永江俊昭陶芸展

沖縄八重山、その中でも最も南に位置する波照間島に産する土を使い、様々な技法を駆使してその魅力を最大に引き出そうと制作する永江俊昭。沖縄に魅せられ、歌の師匠の元に通いつめるうち、島で昔制作されたという陶の話を伝聞し、窯跡を探し当てることから彼の「波照間焼」は始まった。その経緯については彼が用意したステイツメントに詳しいから下に記す。

古来「神の島」ともいわれ、神行事、古謡が多く残る沖縄においても有数な歴史を誇る島であります。
その波照間島でも昔は、家屋用に琉球赤瓦を島内で焼き、島内に窯を築き、瓦の他にも甕などを焼成していた様子です。しかしその窯も今は無くなり、瓦はじめ陶器を製作することもなくなりました。
かつて八重山では、有名な「新城(パナリ)焼」というものが新城島で焼かれていましたが、波照間島においてはあえて「波照間焼」というものは存在していなかったようで、この度、波照間の土を使い、波照間の素朴な雰囲気を残しながら懐石食器、茶道具、壷類、雑器に至るまでを製作すべく「波照間焼」を興しました。
目の細かい、焼き締まりのいい素晴らしい土質で、焼き上がると赤色に発色します。ただ、耐火温度が低く薄造りには不向きですが、洗練された中にも野趣に富み、波照間島独自の空気を映す作品作りを心がけております。
また、波照間の海には、ダイバー達の間で時に「波照間ブルー」と呼ばれ、ダイバーたちが憧れる美しい海があります。その海の深い青色を表現すべく「波照間青釉」と称した青い釉薬の作品をはじめ、焼き〆陶、刷毛目粉引き等の技法を用い作品作りをしております。 永江俊昭

1984年芦屋市滴翠美術館陶芸研究所から始まった永江俊昭の陶歴は李朝陶磁への傾倒から、中国古陶磁、古唐津、京焼きへと進み、更に刷毛目、粉引き、三島、織部とその枠を広げて来たわけだが、波照間の土を発見することによって新たな境地に導かれたといえよう。
古陶の完成された世界から、自らが興す未知数の世界へ。この大きな転換を問うべく今展の次第となった。おおらかで神話的な島の風光に魅せられる人は多いが、すでに捨てられて顧みられなくなった窯あとを探し、土の在処を問うて歩いた熱意と「波照間焼」という名で自らが可能性を切り開くという自負によって、永江俊昭は世に「波照間」を知らしめ、さらに島との密接な関係性を築くこととなったのである。
その恩人である八重山民謡の師・後冨底周二先生のお兄様ご夫妻と今展の総合プロデュースを引き受けてバックアップして下さった小林社長、そしてそのファミリーの皆様が初日に駆けつけて下さった。心から感謝を申し上げたい。

万葉を描く日本画展

万葉集4500余首のなかから、それぞれの画趣に合う一首を選び描くーという企てが、さいかや川崎店のあと連休をはさんでいよいよ開催された。
周知の通り、万葉集は現存する最古の歌集で7世紀半ばから8世紀半ばにかけて詠まれた歌が20巻におさめられている。天皇から庶民まで身分や歌風をこえて幅広く蒐められた歌垣は、その後千年の時を経ても多くの人々に愛され続けている。
普段、ことさらに万葉集といって本を繙かなくても百人一首や教科書で親しんだ歌も多くあり、その驚くべき浸透力には今更ながら瞠目するばかりである。
今展を構成する画家たちも、4500余首の歌たちに分け入ってその世界を自分たちの血肉とした。また、選んだ歌も多岐にわたり一首として重なりがなかったことも申し添えよう。
それぞれ案内状用に選んだ歌を50音順に記す。

池田美弥子 美奈の瀬・鎌倉由比ガ浜(4号)
ま愛しみさ寝に我は行く鎌倉の美奈の瀬川に潮満つなむか(詠み人しらず)
磯部光太郎 万葉の銀河 (8号)
天の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎかくる見ゆ(柿本人麻呂)
織田有紀子 春の耳成山 6号
香具山は畝傍を愛しと耳成と相争ひき神代よりかくにあるらしいにしへもしかにあれこそうつせみも妻を争ふらしき(天智天皇)
越畑喜代美 恋する時に 60×15
卯の花の咲くとはなしにある人に恋ひやわたらむ片思にして(詠み人しらず)
小松謙一 ももいろの刻 6号
桜花時は過ぎねど見る人の恋ふる盛りと今し散るらむ(詠み人知らず)
鈴木強 笑うトラ 6号
虎に乗り古屋を越えて青淵に蛟龍捕り来む剣太刀もが(境部王)
松谷千夏子  松枝  大衣
八千種の花は移ろふ常盤なる松のさ枝を我れは結ばな(大伴家持)
山下まゆみ 国見の歌(月)白虎 75×20
大和には群山あれど とりよろふ天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原はかまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島大和の国は(舒明天皇)
山田りえ  うつぎ 6号
佐伯山卯の花持ちし愛しきが手をし取りてば花は散るとも(詠み人しらず)

どうだろう、この選歌は。画想から入るか、歌から発想するか。それぞれの画家の意気込みがみえるようである。おおらかな恋の歌、国褒めの歌、植物の歌、東歌、果ては天体を巡る歌まで万葉びとの自由な発想の舟にのって、画家たちは大海に漕ぎ出したようだ。
自然や風光に自身の心情を託して謳う、といういかにも日本的な表現は絵の世界にも通底するもの。これ以後、幾万の歌がうまれテクニックの堆積のなかで徐々に本来の言葉の力がなくなってくるなか、何度もこの「古拙」に戻りここから力をもらって再生してきた事を考えると、本展の画家たちの挑戦も宜なるかなと思えるのである。
本来の「言葉」の力、「絵」の力は野太く直裁でストレートに胸に届くもの。「美」という衣にそれらを包みそれぞれの世界観を託す訳だが、時代が下ると衣の方が厚くなりすぎて中身が見えてこないようになる。
本展では、万葉の歌を借りて、もっと素直にもっと自由に発想しようという画家たちの意欲をかいま見せてもらった。回を重ねるごとにこの千年の時を超えた「言葉」と「絵」の往来は楽しいものになるに違いないと期待しているが、次の展開は如何に?
画像は万葉に因んで「草の宴」。野山に若菜を摘みにでた元乙女たちによる心尽くしの一夕である。ちなみに「この岡に菜摘ます児 家告らせ 名告らさね」と言い寄る殿方はいませんでしたな、残念ながら。

平野俊一展 in the garden

満開の八重桜のもと、平野俊一の花シリーズin the gardenが始まった。足下に広がる野の花を描くようになってからかれこれ4年はたつだろうか。今展、紛れもなく「Hiranoの花」といえる世界になっていることにあらためて気付いた。
2002年、当画廊での初個展。以後ほぼ毎年その歩みに同道してきた。平行して開催するグループLABO展では、毎年果敢に違う画風に挑んできた平野だが、「花」シリーズは意識して歩をとどめ、集中して描いて来た。昨年あたりから焦点をぼかした印象の花を「ゆらゆら」と描きはじめる。
この作風を「目の括約筋が頑張らなくてもいい」と評した人がいたが、まさしく滲んでいく色がやさしく目にひろがる。
仕事でミリ単位の細かい作業を重ねる平野が、ある時目を上げると別の景色が広がっていたのだという。老眼というお年頃になっていたのだ。その目に映る花々の美しさ。細部の見えない、純然とした色の塊として「花」を認識した時が、平野の「花」とのファーストコンタクトだった。
以前から、雨や雲、空といった気象の変化ーあえていえば「時間」を描いてきた平野。刻々と変化する気象を肌で感じ、その行方に目をこらすことで心の揺れと共振させてきた。
一秒とて同じ時間はない、が絵を描くという行為はその流れ行く時を切り取り「永遠」に孵化させる力をもつもの。
変わっていきたい平野が「花」のもとにしばし留まろうと思ったのは、美しい色の塊として見た花に「一秒」と「永遠」と同時に感じたからではないだろうか。
風にゆらぎ、刻々と開花し散るという営為を一枚の絵に留める、というのは至難なことではあるが、お年頃の目は細かいところがよく見えないため、大局がつかめるという利点がある。
今展での平野の筆は目の代わりになって、一枚の絵の中に複数の見え方を同居させた。よく見えたり見えなかったり、近づいたり遠ざかったりする視点が混在する不思議な画面だ。「花」そのものというより、「花のある空間と時間」ということなのだろう。-in the garden-とはいいえて妙である。
またしても不肖柴田は、この秘密の花園に踏み込んだあげく迷って出られなくなってしまった。時間と空間が奇妙に入り組んだ「花」たちの間を彷徨う黄金週間となりそうだ。どうか探さないでね。

三笑展ー橋本龍美・野崎丑之介・牛嶋毅

三笑展ー橋本龍美先生の命名による本展は、先生に私淑する野崎丑之助と牛嶋毅の願いが結実して実現した。古来画題となってきた中国の故事「虎渓三笑」は雪舟や曾我蕭白の筆で知られるが、次に簡単にその略意を記す。
東晋の僧、慧遠は廬山に隠棲し俗界禁足して30年山を出なかった。訪ねて来た客人を見送るときも、山の下にある虎渓の橋を越えることがなかった。ところが、ある日友人の陶淵明と陸修静を送っていって、道中話が弾み気がつくと虎渓の橋を渡ってしまっていた。そこで三人は大笑いした。
それぞれ仏教、儒教、道教の象徴的な人物として、これらが融合する唐以降に三位一体を示すものとして流布したということだ。
この故事をふまえ三人展の名とした橋本先生の含蓄は、見事に三人の関係まで示唆していて、これにうなったのは私だけではあるまい。「三笑」は自由ということである。立場を越え、年齢を越え、集う仲間が計らいなく笑い合う。そういう場に立とう、と先生は後輩画家をいざなう。
このいざないに、野崎丑之助は大島紬の生地に五不動を描き、牛嶋毅は曾我蕭白から画想を得て、板絵に挑戦した。いずれも創画会では発表していない新たな取り組みである。大胆にして不敵しかも細心ー先生の画風から大いに刺激を受けて描いた作品だった。
1927年生まれ今年齢81歳の橋本龍美先生は、新潟は加茂出身。新制作日本画部から出品。創画会の創立メンバーでもある。古典や習俗に取材した摩訶不思議な世界を奏でる画家として、唯一無二の境地にいる方なので、俗世間と交渉は絶っているとばかり思っていたところ、その先生に虎渓の橋を渡らせたのが、くだんのお二人なのである。画像は呵々大笑の証しーことのほかお優しい気骨の方であつた。
その先生が出品して下さった、国芳の「壇ノ浦」模写が素晴らしいかった。模写といえば、本画の勢いがどうしても削がれてしまうものだが、先生の取り組みは本物を凌駕するパワーを絵に与えていた。一線一描に魂を込めて描いたに違いない、と思わせる力作だった。
このような仕事を、懐中に呑んでの制作である。後輩たちに指し示す道は、笑いながらも厳しい。しかしそれに適う人材と見込んでの「三笑」展だったに違いない。どうか、来年も虎渓の橋を笑いながら渡って下さいますようにと願うや切。

中川雅登展

 中川雅登日本画展が今日から。
1968年 愛知県豊橋に生まれ 1987年愛知県立芸大美術学部日本画科に入学し、92年に同学部中退。その後も愛知芸大模写「法隆寺金堂飛天」「西大寺十二天像」に従事する。2004年から名古屋で個展やグループ展で作品を発表しはじめ、東京では今展が栄えあるデビュー戦に。
 画像でご覧の通り繊細極まりない画風。300鉢もの草花を自ら育ててスケッチしたものを下敷きに16点を描いた。今回はご近所の西邑画廊さんでこのスケッチも同時に発表、二会場で本画とスケッチ双方の魅力を披露した。
 ご本人のもともとの気質と模写で鍛えた技術があいまって、今時珍しいような正統的花卉図ではあるが、モチーフとしているクリスマスローズはようやく近年日本でも知られてきたキンポウゲ科の花。そのモダンな容姿が古典的な描法で描かれているところが今展の見どころであろう。
 丹念に平刷毛で塗られた空間にデリケートに置かれた岩絵具。息をつめて筆を置いている様子が偲ばれる。このような仕事に大作は過酷だ。50号の花菖蒲もどのくらいの期間を費やしたのか、想像を絶する。だが伴清一郎氏の作品を見て小品でも密度があれば大きさは関係ない、と感得。以来、小品にも心血を注ぐようになったという。
その甲斐あってどの作品にも匂うような品格がある。この品にさらに力強さが加われば、いずれ花卉図の世界の継承者のして世にしられるのは間違いない。一枚の葉、一枚の花弁のなかの神秘に分け入って、その美を余すところなく表現することに夢中で、俗から背を向けているように見える氏ではあるが年齢わずか40余歳。まだ仙人になるには若いお年頃。豪腕で描く細微な世界がこれからどう進化していくか、楽しみにしていようと思う。

竹内淳子展

「チベット絵日記」<> 竹内淳子の二年ぶり四度目の個展が今日から。
九州は小倉生まれの玄海育ち、由緒ある名刹の末娘が京都のある宗門の大学の文学部に入学したところからこの物語は始まる。
正しいお嬢様の進む道まっしぐらに国文を勉強していた彼女の目に飛び込んで来たのが、京都に数多い美術館の絵だった。本を繙くより、絵を見ている時間の方が多くなって来た頃、日本画を描いてみたいと専門学校に飛び込んだのだという。京都の凄いところはそこに日展の村居正之先生や畠中光享先生がいたことだ。結局、卒業の頃に先生方がお父様の方丈を説得して下さり、京都造形大の前身、京都芸術短大に入学、上記の先生や竹内浩一先生の指導を受けることと相成った。
一見、国文に日本画は正しいお嬢様の道のように見えるが(柴田もほとんど同じコース)、実はこれがけもの道の始まり。1988年二十代も後半にさしかかっていよいよ卒業するという頃、たまたま行った上海で異様なオーラを発散しているチベット人を見かけて衝撃を受ける。これもお嬢様の常ながら、欲しいものにはまっしぐらーこの衝撃の訳を究明すべくただちにチベットに向かう。以後20年、のべ一年余をかけてチベット各地の道なき道を踏破する。
言葉もわからず一人の手探りで始まったチベット彷徨も、今では「地球の歩き方」に紹介されるようなチベット通になった。道ばたに座り込んで描いたチベットの子供達や,老人のスケッチも数えきれない。高山病でふらふらになりながら休憩の時にはロバを描く。体全体でチベットを感じて来た歳月だった。
故郷や京都で描きためた作品を発表し始めた頃、出会った骨董店「昔人形・青山」のK一さんに一目惚れ。かなりの年の差を強引に押し切りめでたく結婚、いまや愛猫二代目クッキーをしたがえ押しも押されぬ「時代屋の女房」だ。
ところが、東京進出を企て畠中先生から紹介された先が、この柴田悦子画廊。お嬢様のうえをいくお嬢様の画廊だったものだから、けもの道にさらに拍車がかかった。真綿でくるんで大事にされた初回のあと、同じつもりで来たらいきなり画廊主はニューヨークへ。後を任された小黒氏妻・早苗ちゃんとともに泣く泣くお留守番の悲哀を味わうことに。獅子は我が子を谷底へ突き落とす作戦は効を奏し、画廊主が帰国する頃には二人手を取り合って「柴田さんがいなくても平気!」と宣ったもの。
それはさて、そんなこんなで京都での個展をなかに挟むので隔年になる個展だから都合八年になる付き合いだが、毎回極彩色の残像を置き土産としてくれる。他の誰でもない竹内淳子の色彩の残像は強烈だ。あか抜けない、といってもいいような土臭さを内包してどうだ!とばかりに光り輝く。晦渋とか枯淡という言葉の対極にこの徹底した肯定の世界はある。生き物としてのパワー、、この異様にも見える強さは疑うことを知らない、その必要のない世界が持つものだ。
神々の山、神々の民ーー上海でそれらに引かれるように出会ってしまった竹内淳子だが、その物語の序章に最初のエンカウンターが隠されている。それは先代ご住職の蔵書が納められた書庫で遊んでいた彼女が見つけた「大蔵経」。その背表紙の字をみるとワクワクしたという。もちろん中身を読んだ訳ではないが、大切な事が書かれたものという印象を深くもって、以降「蔵」の字をみると反応したらしい。チベットは漢字で書くと「西蔵」。やはり縁としかいいようのないものがここにある。
今展に先だって、ご実家の寺の襖絵を描く機会を得た画伯は、長い旅を経て「蔵」の出発点に戻り「迦陵頻伽かりょうびんが」という仏の声を形容するともいわれる伝説上の鳥を描いた。絢爛豪華な作品を襖にして納めてみると、寺の内陣の陰影に富んだ光線によって、刻々と金箔のニュアンスが変わりさらに美しく荘厳されるのを目の当たりにしたという。
作品が画家の手を離れて、光や時間によって様相を変えていくーこのダイナミズムは作家のエゴをはるかにこえる。あとは祈るのみだ。
今展ではその仕事をふまえ、「チベット絵日記」と題して大作三点を含む十三点をご紹介。とくに奉納作品と同サイズの大きさに描いた「西のロバ」が収穫だった。ロバの巧まざる存在感と過不足ない装飾が一つの境地を示していたと思う。いつまでも見飽きない、もっと見ていたいと思わせる「魅力」に満ちた作品だ。誤解を恐れずにいえば、なんでもないもの。それが他の要素を呼び寄せるー内陣の光のように。
さて、そろそろこのロバの休憩時間も終わったようだ。青山の旦那が手早く天幕をたたんでいる。竹内淳子のキャラバンは次の露営地を目指して早くも出発進行!私も「竹内淳子物語・我田引水ダイジェスト版の巻」を巻き了えるとするか。

佛淵静子日本画展

昨年に引き続き、二回目となる佛淵静子の個展が始まった。
「ほとけぶち」という珍しい姓は鹿児島出身の父方のものとのことだが、本人は1974年に東京で生まれた。’98年に多摩美術大学美術学部日本画専攻卒業、’00年に同大学院の修士課程絵画専攻を修了すると翌’01年には初個展。以後、個展グループ展他公募展にも積極的に出品し、旺盛に制作をしている。この一月には日動画廊・昭和会展招待になるなど、ジャンルを超えた活躍が目覚ましい。
当画廊とのご縁は’07年の日本画四人展「plus#1」展から。翌’08年の個展では黒のドレスの四連作で月の満ち欠けを表現した作品が記憶に新しい。
今年はどんな挑戦をしたか?
まずDMの作品から驚かされた。ナースが奇妙なポーズをとっている。しかも紙の地にはほとんど彩色が施されず、わずかな描写でなりたっている作品だ。今展のナース連作6点のなかで、一番省略がきいて線が目立つ。しかも15号というサイズに全身を入れて無理のない作品に仕上がった。鉄線描というか、抑制の効いた的確な線にわずかに加えられた衣装の白と手先の朱が、イラストでもなく漫画でもない日本画独特の存在感を現して際立つ。
先に驚いたと書いたが、ナースの衣装や奇抜なポーズもさることながら、昨年の墨のたらし込みによる黒のドレスシリーズの時には物足りなく感じた「空間」が出来ていたことへの驚きが一番強かった。何も描いていない生の紙に奥行きと広がりがあるのである。いかに描くべき対象と真摯に向き合ったかがわかるというもの。
昨年入院した彼女はテキパキ働く看護士の動きの美しさに改めて気付かされるという経験をした。「制服」というものが持つ機能は、それを身につける人間の個性を抑制するが、抑制することによって際立つのが個性。今回はその象徴としての「ナース服」とモダンダンサーの奔放でキュートな動きを組み合わせることで、そこにわずかに生まれる違和感という衝撃を絵にしたのだ。
「ナース服」という、ある種エロティックな幻想を呼びやすいものに敢えて挑戦した彼女の描きたかったのは、システィマテックで清潔なエッセンス。一本の線が緩んでいたら、この清潔さは容易くエロティックなほうに傾くだろう。その危うい橋を佛淵は真剣に渡り切った。
また前回の黒のドレスに対しての白ということでいうと、和紙の白に白を描くのは更に難しい挑戦だったはず。描写をどこまでするか、削る作業は自分の技量との勝負になる。6作並べてみるとその葛藤の過程がつぶさに見えるようだ。作品として成り立つぎりぎりを攻める、、。迷いも魅力だが、引ける線は一本。そのスリリングな緊張感が生み出した今回の「空間」だったように思える。
かくも魅力的な「空間」と「線」だが、さらに負荷をかけて描かない超美技を身につけてほしい。世の中に細密緻密の名人は多いが、その密度が一本の線に集約されていたら、どんな凄いことか。
私の要らぬ夢想は別として、今展会期中に美術倶楽部で開催された「アートフェア」中に出品されていた安田靫彦画伯の白描画をみて、佛淵の仕事が先人の掘り起こした軌跡に繋がる可能性をみる思いがしたことを記しておこう。
もちろん自身の嗅覚を信じて行くことに尽きるが、猛虎の内面を合わせ持ちながら抑制の美学を良しとする彼女が次に向かう先がどこなのか、楽しみに待たれることだ。 昨年に引き続き、二回目となる佛淵静子の個展が始まった。
「ほとけぶち」という珍しい姓は鹿児島出身の父方のものとのことだが、本人は1974年に東京で生まれた。’98年に多摩美術大学美術学部日本画専攻卒業、’00年に同大学院の修士課程絵画専攻を修了すると翌’01年には初個展。以後、個展グループ展他公募展にも積極的に出品し、旺盛に制作をしている。この一月には日動画廊・昭和会展招待になるなど、ジャンルを超えた活躍が目覚ましい。
当画廊とのご縁は’07年の日本画四人展「plus#1」展から。翌’08年の個展では黒のドレスの四連作で月の満ち欠けを表現した作品が記憶に新しい。
今年はどんな挑戦をしたか?
まずDMの作品から驚かされた。ナースが奇妙なポーズをとっている。しかも紙の地にはほとんど彩色が施されず、わずかな描写でなりたっている作品だ。今展のナース連作6点のなかで、一番省略がきいて線が目立つ。しかも15号というサイズに全身を入れて無理のない作品に仕上がった。鉄線描というか、抑制の効いた的確な線にわずかに加えられた衣装の白と手先の朱が、イラストでもなく漫画でもない日本画独特の存在感を現して際立つ。
先に驚いたと書いたが、ナースの衣装や奇抜なポーズもさることながら、昨年の墨のたらし込みによる黒のドレスシリーズの時には物足りなく感じた「空間」が出来ていたことへの驚きが一番強かった。何も描いていない生の紙に奥行きと広がりがあるのである。いかに描くべき対象と真摯に向き合ったかがわかるというもの。
昨年入院した彼女はテキパキ働く看護士の動きの美しさに改めて気付かされるという経験をした。「制服」というものが持つ機能は、それを身につける人間の個性を抑制するが、抑制することによって際立つのが個性。今回はその象徴としての「ナース服」とモダンダンサーの奔放でキュートな動きを組み合わせることで、そこにわずかに生まれる違和感という衝撃を絵にしたのだ。
「ナース服」という、ある種エロティックな幻想を呼びやすいものに敢えて挑戦した彼女の描きたかったのは、システィマテックで清潔なエッセンス。一本の線が緩んでいたら、この清潔さは容易くエロティックなほうに傾くだろう。その危うい橋を佛淵は真剣に渡り切った。
また前回の黒のドレスに対しての白ということでいうと、和紙の白に白を描くのは更に難しい挑戦だったはず。描写をどこまでするか、削る作業は自分の技量との勝負になる。6作並べてみるとその葛藤の過程がつぶさに見えるようだ。作品として成り立つぎりぎりを攻める、、。迷いも魅力だが、引ける線は一本。そのスリリングな緊張感が生み出した今回の「空間」だったように思える。
かくも魅力的な「空間」と「線」だが、さらに負荷をかけて描かない超美技を身につけてほしい。世の中に細密緻密の名人は多いが、その密度が一本の線に集約されていたら、どんな凄いことか。
私の要らぬ夢想は別として、今展会期中に美術倶楽部で開催された「アートフェア」中に出品されていた安田靫彦画伯の白描画をみて、佛淵の仕事が先人の掘り起こした軌跡に繋がる可能性をみる思いがしたことを記しておこう。
もちろん自身の嗅覚を信じて行くことに尽きるが、猛虎の内面を合わせ持ちながら抑制の美学を良しとする彼女が次に向かう先がどこなのか、楽しみに待たれることだ。

男の墨・女の墨展

Gender series と銘打っての初回、「男の墨・女の墨」展を開催した。そもそも「墨」を使う画家が多いなかに、男と女で墨に対する姿勢が違うと感じたことが始まりだった。当画廊の扱い画家たちで、一度その比較が出来ないかと声をかけてみた。
Genderとは簡単にいえば社会的な意味での性差をいう。ここでは「墨」という書画にとってなくてはならない素材を対象に「男の墨」と「女の墨」と違いをみてもらった。
十数人の作品が並ぶため、男性作品の壁は黒くした。そのためもあろうが作品たちは厳しく緊張感に満ちたものに思われ、一方女性作家たちの作品はとらわれのない自由なものと感じられたことだった。
もともと中国の書画に影響を受けた日本の「墨」作品は長い時間の間に独自の発展と遂げて来た。唐渡りのものを取り込み手本としながら、宗教や文学、思想と軌を一にして進化し、固有の美意識を披瀝するものとして一段格の高い扱いを受けてきたように思う。
一枚の書画に世界観、宇宙観が込められている、というのは勿論理想とするところだが、汲み取るべき美意識は描き手や時代とともにその衣を変える。 維新以降、また戦後以降の前衛の試みはほとんど男性画家たちの仕事である。「墨」もどちらかといえば男の嗜み。
ところが、今や歴史に例のないほど女性画家たちが活躍している時代だ。「をとこのすなる」墨絵だって、ほとんどタブーを考えることなく果敢に挑戦。世界観を考える前に、描きたいものを描きたい、という欲求に従って使っている。下手も承知のコンコンチキ…といえば少し大げさだが、墨という大きな素材を自分の作品に必要な一つの材料として見ている、というところか。
一方、これまでの歴史を背負う男性画家はそうはいかない。入念に腕を磨いたうえ作品に世界観を構築していく。また世間の目も厳しい。へなちょこな墨を描いたら笑われるのである。力が入らない筈はない。
このような社会的な違いと使い方の差はあるけれど、「墨」は画家を魅了してやまない。また今回の作品はどれも私が心のなかで「名品」と名付けている品々。敢えていうまでもないがそれぞれの画家が、「墨」と格闘してできた作品たちである。それぞれの性差のなかに、自分しか描けないものを描きたいと念じた画家の自画像と思って展示させていただいた。
画家それぞれの「墨」を出会わせる機会は、団体展でもない限りなかなかないもの。「墨」という共通項のもとに年齢や性別を超えた研鑽の場があればと思い、今展を立ち上げた次第である。

 

板東里佳展ーShadow of Color

四日前まで摺っていたというほかほかの新作を抱えて二年ぶりに板東里佳が帰ってきた。版画家・板東里佳とのご縁は2000年の個展-Streams of New York-に遡る。以来、二年に一度のペースで発表を続け今展で五回、早いもので十年に及ぶ道中となった。
板東里佳は1961年東京に生まれ、1984年に渡米するとニューヨーク・アカデミー・オブ・アートで1990年まで彫刻を学び、その後2000年までアート・ステューデント・リーグ・オブ・ニューヨークでリトグラフのコースをとっている。
在学中の1999年にJames R.and Ann S.Marsh・メモリアル・バーチェイス・プライズ ハンタードン美術館で賞を受けたのをはじめ、意欲的にコンクールやグループ展に出品して受賞。2000年からはいよいよ日本とニューヨークで個展を開催し始める。
それ以降の目覚ましい精進ぶりはあえてここに書くまでもないが、作品世界の深まりとそれを支える高い技術力として結実し、緊密で浄化された世界へと私たちを誘う道標となったのである。
私が見た作品の、最初はメイソン・ジャーシリーズだった。彼女がいつもいる台所からみた窓際の光景。そこにさりげなく置かれた保存用のレトロな瓶。その瓶に映り込むブルックリンの光景は、透明な光に満たされた美しい断片だった。清潔で、だからこそ少し孤独な陰影を感じたことも。
次に見せてくれたのは、その窓を開けて下を見下ろしている構図だった。雪解けの道に車が付けた轍。その無作為な抽象の面白さを丹念に構成した作品や、白をいかに美しく見せるかに心を砕いた雪景色などの一連の風景シリーズである。
また次には外に飛び出し満開の桜を描いた。桜のあでやかなピンクの隙間から無窮の空。これ以上ないというきりりと粋な桜花ー取材したブルックリンと北海道の桜はともに大輪で見事な姿だったという。
友人の句に「雲を透き 花を透かして 降るひかり」というのがあるが、次に里佳さんが向かった先は光に一番近い雲。雲のドラマもまた見飽きないものの一つだが、「天使の階段」と英語で言われるところの、雲間の光に挑戦。雲を透かして光が織り成す一瞬のショーを白と黒で見事に表現した。
前回はその光が地上に届いて地面に陰影を与える「木漏れ日」がテーマ。風のそよぎとともに一時も同じ姿を留めない揺れ動く形象を、ごく薄の手漉き和紙「阿波紙」に託して刷った。紙を洗濯ピンでつなぎ壁に添わせた展示とともに印象深い。
こうした軌跡を経て、今回のテーマである「Shadow of Color」に至るわけだが、「光」を描くために木の「影」を丹念に描くという発想は、どこか東洋画の思想を思わせる。地面に揺れる木漏れ日から木の幹へ焦点は変わり、光が作ったシルエットとして樹々が表す情景をこれ以上ない位ほど緻密にとらえている。
このように繊細にものごとを感じる人の常として、画面の隅々まで神経が行き届くよう仕上げるものだが、今展で私が感じた大きな発見は「余白」である。リトグラフの黒を白の幅をメゾチントの幅まで広げたいと技術に磨きをかけて来た板東里佳の仕事は、黒のニュアンスを広げるとともに、「何もない」とおもわせる「余白」の白にたどり着いた。
手を抜いている訳ではなく、計算されつくした白の空間。白が空間として成立するためには、黒がよほど描けてなくてはならない。今展の制作を通して、そのためのあらゆる努力をした姿が偲ばれる。
“Simple Gift”Pin Oak と名付けられた4連作ではこの「余白」が見事に生かされ、光が自在に樹々と戯れ、様々なムーブメントを作り出しているさまが見事に描かれている。鉛筆の風合いが出るように、インクの調整に気を配り、色の深度まで計算して版まで変え、しかもその努力の跡がみじんも作品にとどまっていない。これは凄いことだ。
最初、なにげなく見えたものが時を追う毎に深みを増して、色んな姿を見せはじめるー一週間、この作品たちとともに過ごした私の実感である。これら今展の作品たちは「生き物」のように見る人の心を巻き込んで動き出すだろう。傑出した作品と思う所以である。

松崎和実展ー箔画Ⅱー

松崎和実の箔画による展覧会が始まった。松崎は1969年宮崎県生まれ。96年に上京し、墨を使った画家集団ISAM(International Sumi Art Movement)に参加、墨を使った実験的な作品に挑んでいく。数々のグループ展や国際展を経て、2004年に初個展。その後、薄美濃紙の上の箔に描き、切り抜いたものをアクリルの板に挟んで額装するという離れ業を編み出し「魚類」をテーマにユニークな制作を続けている。
二人展も含めると二年ぶり三回目になる今展でもその驚くべき超絶のワザで圧倒し、彼の描く魚たちのリアリティはご見物衆の目から鱗を取り払ってうならせている。
もともと墨のつけたてを修業した腕があるうえに、魚たちに対する突き詰め方が尋常ではない。いかに生き生きと自分が感じた魚を描くか、を追求したあげく描いた魚を紙から切り離すという、普通思いつかないような発想を得たという。浮かび上がらせて光を当てると額の底に魚影ができるーこの影が絵に描いた魚にさらなるリアリティを与え、美しさを添える。
この技法に「箔画」と名付け、二年の歳月を費やした一対の大作が今展の収穫。春夏と秋冬の旬の魚たちを螺旋状に描いた「魚の柱」はその描写の細密さと形状のシュールさが相まって見事な海の物語となっている。
もともと江戸時代のある藩の魚類図譜から啓蒙されたという魚作品だが、すでに図鑑のレベルをはるかに超え魚類の神話とも言うべき世界を紡ぎ出しつつあるように思う。
この没頭が生み出す狂気のような力はタブーを恐れない。江戸期の若冲にしても狩野派全盛の時分にあっては異端の謗りを受けていたというではないか。誰も見た事がない世界を描きたいという野望は自分自身さえそれがどこから来ているのかわからないものだろう。
松崎の目指している先がどこであれ、自分が静かに熱狂しまた回りもその熱を共有できるような世界であることは間違いない。そのメッセージを発信するのに絵筆という得物を見つけ、自在に発想していく勇気と追い求める根気をもつ彼が、私たちをどこまで連れていつてくれるかーーこの「海の神話」に魅せられた私の期待はいよいよ増すばかりである。

画廊コレクション展

今年は画廊開廊から13年目の春。正確にいうと4月開廊なので12年と9ヶ月になる。四百回にはちょっと欠けるが、まぁよく走ってこれたもの。しかもこのご時勢にだ。
自画自賛にはまだ早いとしても、ひとえに画家たちの魅力と、応援団があればこその自走。今回は普段振り返れない道のりを、作品とともに一部ご紹介した。特に去年の個展時に力作ゆえ間に合わなかった瓜南直子の大作と、伴清一郎の作品を並べて展示することができたのは、ちょっとうれしい。
これまでお付合いした全画家の作品を並べることができたらもっとうれしかろうと思うのだが、いかんせん壁面がたりない。いずれ15周年の節目にでも大きく振り返って見ることとしよう。まだまだ先の長い道のり。
今展のプチコレクションでは、やはり十年単位の時間の経過を感じた。画家が第一線で頑張り、作品を残し続けていると画風の厚みとなって風格となる。いい仕事は時間が経過してさらによくなる、という事を再認識させていただいた。
いずれ時の審判がそれぞれの作品に下されるにせよ、今行くこの道が間違っていないと改めて勇気をもらった展覧会だった。さぁ、また頑張ろうっと。

 

第三回堀文子教室同窓展

多摩美大・堀クラスの同窓有志による第三回展が始まった。今展のために体調万全の構えでおこし下さった堀文子先生をお迎えし、会場はひときわ華やいだ。
堀文子先生が多摩美大にこられた53歳当時初めて受け持たれた学生たちもはや当時の先生のお年を超して久しい。退任なさる最後の二年を教わったという五期目の青山・加藤・新恵三名を今回は加えて20年にわたる堀教室の全学年が揃って顔を合わせ、一点一点を先生に講評して頂く貴重な機会を得た。
卒業後はそれぞれ様々な人生を送ってきたなか、画家を職業としている人もいれば、この展覧会に出すために年に一度制作する人もいる。その一人一人の人生と出会うかのように問いかけ感想を述べられるのは大変なことと思われるが、先生はほぼ一時間立ったままで語り続けた。
絵は正直に内面をあらわすとかいうが、先生の直感は絵を通して目の前の人の心の有り様や迷いを一瞬にして見分けるようで、皆一言一言を胸に刻み付けるように聞いている。
絵は教えられるものではない、と常々明言されている先生のことだから、ここをこうしなさいという事はおっしゃらないけれど、その人が何をどう表現したかったのか深く切り込んで胸にすとんと落ちる一言を下さった。
制作上の野心はともかく、媚びたもの品のないものに対する潔癖さは当時から一貫して厳しく、学生当時からこの美意識だけは叩き込まれたような気がする。この道をすすめばお金とか権力とは縁がなくなるから、皆様にはお気の毒だけれどもこの道しかありません。と言い切る先生の美意識の片鱗を同窓の面々はそれぞれに分ちもって、今展で合わせてみているのではないかとも思う。
90歳になる今も月二回の連載の締め切りに追われ、日々のアトリエの明け暮れもお忙しいとお聞きするなか初日に立ち会って下さったのはなににも替え難い喜びだった。
年々歳々ー明治はおろか昭和も遠くなりにけりだが、大正から昭和平成を絵筆一本で生き抜き洋の東西をまたぎ70代からイタリア移住、80代にはエベレストと獅子奮迅の活躍をしてこられた先生の透徹したエネルギーを受けて、同窓の面々も奮起したに違いない。さらにここから次代へ大事なものが引き継がれますように。


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