押元一敏展 -KA・RA・DA-

例年なら桜の開花予想のニュースが聞かれる頃なのに、東北の被災は原発の不安と相まってますます深刻化している。

とはいえ、被災地ですら復興に立ち上がろうとしている時である。銀座まで灯が消えたようになっているのはいかがなものかと、貧者の一灯をともしているところ。
佛淵静子に続き、今日から始まった押元一敏もまた常に変わらぬ灯火を絵に点している。中世のキリスト教絵画や日本の仏像に啓発されたという押元の人体のフォルムは、ますますその洗練を加え極限に近づいているようだ。
女性の姿形を借りながら、その曲線は限りなく自然と相似して来ている。豊かな女性への憧憬は象徴に高められ、黒と黄土に塗り分けられた平面として静かにしかも意思的にここにある。
存在するものを、掴みたい現したいという押元の意思が、千年眠っていたかのような像に結集したのである。あこがれとも情緒とも決別した、ごろんとそこにある「本質」に迫る仕事といえよう。

地震ーそして佛淵静子展IV

Webサイトリニューアルをにらみながら、昨秋よりすっかりご無沙汰していた悦子の部屋。すっとばした画家さんの記録は夏休みの宿題のごとく粛々とやるにしても、この度襲った地震に関しては発信せずばなるまいとようやく思い立ちました。
画廊は平常通り営業しております。お茶等の用意もありますので、何かありましたらお立ち寄り下さい。また画廊掲示板に近況など書き込んで下さると、それぞれの情報が伝わると思いますので閲覧の方は出来るだけご協力お願いします。
さる11日、渡辺夏子展のさなかに画廊で大きな揺れを感じ、画家お客様とともにビルの外に避難。近くの三角ビルが大きく揺れるのを目の当たりにして大変なことになったと呆然とするも、たまたま居合わせた立野ただし氏が画廊内トイレに散乱したこもごもを掃除してくれるなど、力強いご協力を得た。幸い絵も食器類もことごこく無事。深夜11時には地下鉄が復旧したので帰宅もかなった。翌日も最終日にあたる翌々日もご来廊のお客様あり、こもごも情報交換やら無事を確認し合うやら。
日曜の入れ替えで渡辺夏子展を終了させたのち、佛淵静子が町田より搬入。色々情報が錯綜するなか今日初日の画像を皆様にお目にかける。まずは緊急のご報告まで。

武井好之展ー沖縄百景・那覇リウボウII

本土が軒並み炎暑記録を更新するなか、沖縄はゆうゆうと32°をキープし涼しい顔。昨年の沖縄百景に続く第二弾となった、沖縄は那覇りうぼう美術サロンでの今展で武井好之は一年の歳月をかけて取材した二十数点を発表した。
知る人ぞ知る地から、日常の生活の場までその筆は休むことなく描き続ける。その迫力は海の青に集約して現れているが、それぞれの景に島への敬愛が満ちているため見る人の心になにがしかの郷愁を呼び起こすようだ。
「子供の頃、浜のこの辺までくると裸足で海にかけたのよ」と石垣島からの人がいう。道の向こうにわずかに見える海に人は駈けるーまるで希望と置き換えてもいいような心のはずみをそこに見て。
武井好之がここまで打ち込んで描こうとしているものが何なのか、「百景」を描き終えるまでその道筋を楽しみに伴走してみようと思っている。

 

三谷綾子展ーParedeー

ー憧憬ーと名付けた初個展からはや二年。三谷綾子が今展では水彩の作品を世に問うてきた。前回は渾身の力みなぎる油絵作品を発表して「ここに我あり」と名乗りをあげたものだったが、その後地元秋田での展覧会を経て、水彩画にも新境地をひらいた。
Paredeパレードというテーマは、一列に並ぶ林檎の群れからイメージしたというが、80号から3号まで大小14点余りの作品はすべて林檎にちなむ作品で統一されている。
三谷綾子が住む秋田南部は青森や長野の並んで林檎の産地である。寒暖の差がその実にぎっしり詰まっているような凛冽とした味は忘れ難いものであるが、今展の三谷作品を見ていると、味覚とともに林檎を収穫する頃の蕭条とした気配や風の匂いまでよみがえってきて、「ノスタルジア」というタルコフスキーの映画まで思い出すことになった。そのエンディングに、現在いるローマの廃墟ともう帰る事の出来ない故郷ロシアの小屋が重なり、なんとも美しい心象の幻視が映像化されているのだが、三谷のダブルイメージの画面もまた写実を越えた深さを追求してやまない。
DMの作品「Parede」は林檎とその作業小屋のイメージを組み合わせた作品である。また「寂光」は林檎と作業小屋の入口のビニールを取り合わせた。絵画ではダブルイメージというが、俳句では異なる主題を取り合わせることを二物衝撃という。それぞれをある配慮のもとにぶつけた時、単体をこえた深さ、高みを得る効果がある。明治期、正岡子規は西洋絵画の「写生」から俳句にもそれを取り入れて新境地をひらいたが、映像でよく使われるオムニバスという手法はフランスのヌーベルバーグの監督が俳句の簡潔な言葉を取り合わせる事からヒントを得てはじめたと聞くと、洋の東西を問わず人間の新しい表現への意欲というものは凄いものだと思わずにいられない。
三谷綾子もまた、目の前にあるものを描くにとどまらずその奥にもう一つの世界を見たい人種であるようだ。「夢想する力」と名付けたいようなその意欲は、林檎の樹と小屋のイメージを重ね、その奥に営々と続く土地の記憶をも思わせる。だが、その筆さばきは軽快で透明感のある光に満たされている。北方の光というのは別格で、緯度のせいなのかものがクリアにみえる。写真家が朝と夕方のひかりがいいというが、三谷綾子の目はこの祝福されたようなひかりを感じる能力に優れていて画面に爽やかで豊かな詩情を与えているのだ。
久々の東京滞在であちこちの美術館を堪能し、泰西名画を見ては、あぁまた油絵が描きたい!とひとりごちる三谷綾子は、乾きが悪くて描けない冬の間水彩を描き、梅雨明けから炎天になる夏の間油絵に打ち込む二期作の画家である。今度はどんな収穫をみせてくれるのか、今はそれぞれに結婚して一子を得ている二人のお嬢さんがたと一緒に楽しみに待つこととしよう。

松谷千夏子展ー人・植物

二年ぶりに松谷千夏子が帰ってきた。2001年よりほぼ二年おきの個展も今展で五度目。華麗なモデルさんを得ていよいよ佳境の女性像に取り組んでいる。
個展に先駆けて開催された日本橋・高島屋の女性画家たちによるグループ展「グラマラス」にもメンバーとして参加した松谷千夏子だが、百戦錬磨の画家たちの間でも独特の存在感を示していた。
今展のテーマは「人・植物」。松谷のライフワークである茫漠とした瞳をもつ「人」が今展でも「植物」の作る空間のそこかしこに佇み、えも言われぬ視線を投げかけている。
近年は余白と線を意識して、和紙の地を残すような仕事にチャレンジしているが、このたびの植物シリーズ「松と蘇鉄」では見事にその挑戦が効を奏し、抑制の利いた空間に引かれた水平の波涛の線が空と地に奥行きを与えるまで広がりをみせた。初めて人物が入らない風景を描いた6年前の作品も勇気のたまものだったが、さらに完成度が高まり松の幹、葉の表現などこれ以上足すところも引くところもないぎりぎりの感覚を伝えている。
また人物と花を同時に描いた作品「牡丹花」には金箔が空間をつくり、軽快な豪奢さというテイストを矛盾なくあらわしてあらたな人物像を作り上げたことが今展の見どころのひとつだった。
いつも乾いた風が吹くようだった女性のたたずまいも、箔の金属の輝きを与えられて意思的ですらある。何も映していないと思われた瞳に、挑発するような光が与えられている。蜃気楼のように実体の定かでない「なにか」を投げかけて、美しい頽廃の夢に誘うようだ。
まだ、人物を描く日本画家も少なかった頃から、創画会や個展で、画面の4分の3が顔というような独特の女性像を発表してきた画家が30年かけて今まさに佳境にいる。時代がようやく追いついて来たのだ。彼女が敢えて描き込まない瞳に、これからどんなものが映り、いかなるものが宿るのかまだまだ目が離せない。松谷千夏子のシャープな感性がとらえる、時代という「蜃気楼」をこれら女性像が体現しているように思えるのである。

小松謙一・藤森京子展ーアオゾラとガラスvol.3

三度目になるアオゾラとガラス展が今日から。 年に一度この季節に帰ってくる渡り鳥ではないが、旅ガラスと洒落たのは去年。今年の「アオゾラとガラス」旅団はどんな旅のかけらを私たちに見せてくれるのか。5月の青空がひろがる中での展覧会をご紹介する。
そもそも日本画の小松謙一がガラス工芸の藤森京子とコラボレーションをするきっかけとなったのは、絵画の平面性を立体化できないかという一つのプランからだった。特に小松の作品は男の羽織のように、表は極めて渋いが裏には派手な装飾が施してある。この裏側も見せたいとかねがね思っていたという。教えにいっていた多摩美大の生涯教育の教室で、ここにかかわるスタッフだった工芸専攻の藤森にこのプランを相談したところ、思った以上に日本画とガラスの相性がよかったらしい。次々とこのユニットによる作品化が始まった。何回か小松の個展で実験的に発表したあと、三年前コラボユニットとしてデビュー。以後毎年この季節に画廊でその軌跡を見せてくれている。
違う素材とのマッチングで一番難しいのは、もともとの作品がもっている質を落とさないでそれ以上のものを作り出さなければならないことだろう。小松の一見渋い作品の裏側にある豊かなカラリストとしての資質は、ガラスという素材を得ていきいきと躍動し始めたし、藤森の精巧でクールな研磨とカットは、小松の作品を取り入れることで有機的な質感を手に入れた。
前回までの作品たちがそれぞれの異質さを喜び消化する出会いのマリアージュがもたらしたものとするならば、今展ではそれを経て自身の作品に得たものを還元したといえよう。
小松謙一は大きな骨組みの桜の古木二点をほぼ対角に配置し、青と茜の空で彩った。水墨の教室で教鞭をとった成果か、その墨の力は抜群に進化し堂々としてしかも自在だ。花が咲いていないのに花を感じる、というのはその古木に生命が宿っているからだろう。まわりの空気も奥行きも気持ちよく抜けていて、これが男の墨だとその木がいう。一方、鉄の額におさまった小品二点は遠い記憶を呼び覚まされるロマンティックな作品。鉄の額のせいなのか、鉄の匂いが呼び起こす記憶と重なる。片や横浜のガス灯通り、片や線路、、、やはり鉄?か。絵肌を鋭く抉って引いた線が、心のどこかの記憶も抉る。強い表現が違和感なく抒情へと収斂していくのも力量だ。墨の世界のダイナミックな展開とひと味違う小松謙一のまだ終わらない青春がほの見える。
一方、藤森京子は「刻」というテーマで煉瓦状に積み上げたガラスを炉で溶かし、時が堆積したようなオブジェを制作した。これが遺跡から発掘されてもおかしくないような、しかも何につかったか見当もつかない摩訶不思議なもの。金彩が施され、時折り時間が削ったと思われるような空洞もあるこれらは、もちろん藤森の入念な研磨でそれとわからないように仕上げてある。板ガラスを溶かしそれ自身の重みで凹んだ形を活かしながら作った盃などはオブジェでありながら身近において楽しめるすぐれものだ。細かくカットしたガラスを溶かし固めることで遺跡の石組みを思わせるという、小さなものから壮大なスケールへの転換は藤森の優れたイメージ力の賜物。この力はまだまだ埋蔵されているとみた。
このようにコラボによって、それぞれが自身のもつ世界を深め、また新たに展開してきたことが今展のみどころだ。コラボ作品は今回さらに自然に一体化して、それぞれの見どころ仕事のしどころの呼吸が実に合っている。日本画とガラスをつなぐ溶剤としての鉄作品も見応えのあるものに育ってきた。今後はこれらをどう進化させ、どんなものを取り込んでいくかが課題になってくる。
来年の「アオゾラとガラス」の旅団が何をお土産にもって帰ってくるのか、楽しみに待つ事としよう。


小松謙一・藤森京子展ーアオゾラとガラスvol.4
小松謙一・藤森京子展ーアオゾラとガラスvol.2
小松謙一・藤森京子展ーアオゾラとガラス

佳き風茶会ー越畑喜代美ふすま絵展

越畑喜代美がふすま絵が描きたいという。それも柴田自宅の八畳間の三面をイメージしたらしい。それでは、と画廊が休みのゴールデンウィークを利用して人数限定のお茶会展を開催した。
何せ閑静な住宅地の合間にある苫屋である。以下、ご招待できなかった皆様にお詫びを込めて顛末記をご披露する。まず招待状の文面はかくのごとし。
青葉の候 皆様には益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。さて、このたび 拙宅の襖に越畑喜代美が絵を描き粗茶粗餐ながら一席をもってはつ夏に献じたく左記のとおり 茶会を催すことといたしました。
かねて懇意の皆様には ご存知のとおり茶会といっても 勝手流と自称するかなり怪しげな仕度でございます。昭和二十三年に建てられたつつましい住いの八畳の襖から 越畑喜代美がどのような「佳風」を送ってくれるのか お招きする皆様とともに楽しみに待つ事といたしたくご案内申し上げます。
平成二十二年 卯月吉日
阿佐ヶ谷・遠見亭柴田悦子謹白
佳い風や 遠見の稲のすこやかに  池田澄子
自宅八畳間に床の間を置き、季節はちと早いが風炉を設える。ほぼ三日徹夜で張り替えたふすまには、あわあわと咲く薄墨桜。なにせ極薄な墨なので一見何も描いてないように見えるのがミソ。昭和23年の正しい民家には五間の縁側がある。これも二日徹夜で張り替えた障子は白く五月の陽光を映すが、座敷の奥には届かない。この薄明かりでうすうすの水墨が色を出してくるのを待つのに30分はかかると踏んだ。
かかるシチュエーションを自然に演出するには、なんちゃってでもいいから茶会を催すしかない。お義理にでも黙って座るうちに、あぶり出しのように絵が浮かび上がってくる筈、と思ったのが間違いの始まりだった。
自宅茶会の最初の仕事はまず徹底的な掃除だ。武井展のため画廊を動けない柴田に変わってこの任についた牧ねえねえ、獅子奮迅の活躍も当日最初のお客さまが到着するまで続いた。まだぼろぼろのトレーナー姿で客入れをする。懐石の籠盛りはご存知・荒木町「夜市」の影丸師匠のお願いして一献差し上げている隙に用意の着物に着替える。幸い最初の御客人は、大体の見当をつけて来てくれている中野の「路傍」一行。爽やかな五月の風に吹かれながら縁側でのんびり庭を見物している。
何事もなかったように遠見亭主人に変身した柴田悦子、庭先から座敷に案内しなにやら怪しいお手前でまずは一服。怪しい手つきをごまかすにはトークしかない。あれやこれや正客とやりとりしながら絵が暗がりから浮かび上がるのを待つ。よくしたもので越畑の墨はこの季節には若葉の山に化ける。桜山に風が吹いて青々とした葉を茂らせるのである。それを一服の夢としておもてなしすることが今回の趣旨なのだった。次の席のお客さまと入れ替わる一時、いいお顔で帰られる方々をお見送りしながら、この暴挙が少し報われたと感じたのは私だけではあるまい。
二日目には二階の座敷で織田梓による煎茶の点前もあり、その夜には沖縄の島唄の神様といわれる大城美佐子先生ご一行が座敷で最高のパフォーマンスを披露して、居合わせた方々を感動させた。マイクを通さない大城先生の絹糸声を聞けた人はそう多くはない筈である。主茶碗に川喜田半泥子の石爆ぜ茶碗を提供してくれた吉田氏も大感激で、京舞いの先代井上八千代を呼んだ座敷に匹敵するとまでいって下さった。
亭主・画家双方とも余裕がないなかの遊びは、なんとも恥ずかしいような次第だが、手弁当で協力下さった牧ねえねえ、影丸さん、大城先生、吉田さんのおかげで誰にも真似できない「なんちゃって茶会」になったことに感謝。
このところめっきり太った私の帯が回らないのにいらだった牧ねえねえが、普段の温顔を忘れて思わず「このでぶがぁ!」とののしって以来、うちうちで「柴田・コノデブガー・悦子」と呼ばれる羽目になったことだけが誤算だった。
最後に「佳き風茶会」の簡単な会記を記す。
佳き風茶会々記/越畑喜代美襖絵披露目記念/お正客 初日1 関本芳明 初日2 小黒良成 2日1 林田裕介 2日2 本江邦夫 3日1 稲川均 3日2 仲山計介
主茶碗 川喜田半泥子 石爆ぜ茶碗 銘 薮礼歌舞令(やぶれかぶれ)/ 掛け物 越畑喜代美 あけび花図 梨花観月図/ 風炉先屏風 越畑喜代美 野路図/ 花入 美崎光邦 彩泥壷 /茶入れ 青山昭三 竹根棗 銘 根々竹(こんこんちき)/茶杓 青山昭三 銘 棚牡丹(たなぼたん)/ 香合 川喜田半泥子 銘 赤玉 /置物 高村光雲 鼠銅印 篆刻 足立疇邨

武井好之展ー島紀行Ⅲ

武井好之の島紀行Ⅲが始まった。武井の沖縄か、沖縄の武井かといわれるほどこの地に打ち込んで七年。当画廊から出発した島紀行展は沖縄での展覧会の往還を含めるとほぼ毎年開催されている。
出会いの衝撃をそのままに描いた島紀行・初回展「夏至南風カージーベー」では島を渡る風にたくして環礁や島の風俗などをみずみずしい感性で表現し、見る人を驚かせたものだった。その後、島の人々を連続的に描くシリーズや沖縄百景シリーズなど次々と意欲作を発表している武井が本展では初心の感動に寄り添うように環礁シリーズに挑んできた。
七年の歳月が武井好之に何を与えたのか、東京沖縄の往還を通して出会ったものの集積がここに昇華されているといってもよい力のこもった作品群だ。画廊の横一面に広がる景は伊是名の海岸線。陸地部分は省略して珊瑚礁の広がる海岸から海を俯瞰した構図は大胆で、今までにない強いインパクトを絵に与えている。非常に繊細で克明に海岸線の構造を追いながら、抽象画のような印象をもたらすこの作品で武井は新境地を拓いた。
月探査機「かぐや」から見た地球が美しいように、地球が水で覆われた惑星であるということをしるには距離が必要だ。セスナ上からこの視点を得た武井は、これをどう自分の表現で描くかを課題としてきた。美しいものをそのまま写しても感動までは伝わらない。自分のどこでどう表現するか、画家としてはここが一番肝要な部分である。
武井好之は海岸線の複雑な構造と波形をリアルに追いかけることでーいわば天然の地形の抽象性を利用してーある人には具象的なものに見え、ある人には抽象的なものに見えるスタイルを画面のなかに作り上げた。作品Izenaには明確にその意図が感じられ、ストレートにその造形の不可思議さに引き込まれるが、長く見ていると抽象に見える波形の上に風が流れ、下には珊瑚礁が隠されている様相が次第にあきらかになってくるのである。大げさにいえば具象のなかに抽象がかくれ、抽象のなかに具象がみえる、というなにか哲学的な摂理をこの美しい環礁にみた驚きが感じられる画面といえばいいのか。
この作品をはじめ、Ukibaru など上空から雲、陸地、海岸、珊瑚礁、海底と順に視線を奥に送ると、薄い水の膜が地表を覆っているに過ぎないこの星の、奇跡的な美しさが肩の力を抜いた柔らかなタッチで描かれていて見飽きる事がない。
この海の青さを表現するのに、日本画の絵具だけでは無理だと判断し、ありとあらゆる試行をしたのだという。まさしく絵にも描けない沖縄の海の青。ヨーロッパでも青の絵具は中世から大変貴重なものだったときく。粉っぽく沈みがちな岩絵具では到底あらわせないこの色をどう出すかも今展の命題だった。水や空気を描くというのは大変な力量がいる仕事だが、この色をさけて島は描けない。無事、快晴の沖縄の海となった次第は画像を見て下さった方には納得の沙汰ではなかろうか。
はやくも武井好之には那覇・りうぼう夏の陣が待ち受けている。


武井好之展ー島紀行VI
武井好之展ー島紀行Ⅲ
武井好之展ー島紀行

平野俊一展 in the garden

平野俊一の満開の桜が画廊いっぱいに広がった。今年は花冷えのことが多く爛漫の桜もどこか白々と見えたが、八重桜の咲き始めた画廊の前の通りに呼応するように平野桜はピンクに輝いて来る人たちを喜ばせている。
2002年から定期的に個展発表するようになった平野は、雨や雲など気象をテーマに一時も同じ姿を留めない空気を描いて来た。近年は身の回りに咲く花を取材し、輪郭の不確かな「存在」としての花を、丹念に集めた画像と自身の記憶により再現している。
ある時眼鏡を外して見た花が、輪郭やディティールを失って不思議なリアリティのある「存在」として立ち上がってきたという。その時の驚きそのままに今わたしたちの前にある「さくら」は、見る人の「さくら」の記憶とも繋がって見事に「あぁ桜ってこうだよね」と思わせてくれるのである。
世の中に桜の名画は数々あるけれど、平野桜は名もない分だけ、各自がそれぞれの心に秘めている「さくら」の記憶を引き出してその気分を再体験できる希有な「さくら」なのである。
大振りな花の下で溢れる春の気分を満喫して花見の宴を行う。日本人ならば物心つく頃からこのどこか浮かれた、しかしどこか儚い季節を体験してくるであろう。平安の歌人も室町の隠者も天下人も江戸の熊さんも、同じ花と季節に酔いしれた。こんな国が他にあるだろうかと毎年の巡りの度に思う。
いささか話はシリアスになるが、特攻隊の方の辞世とされる「さくら散る 残るさくらも 散るさくら」という句にあらわれているような死生観が華やかな宴の背後にあればこそ、このひとときを全身全霊で楽しもうとするのではないか。この世のものとは思われぬような「花」が一斉に咲いて一斉に散る。念仏のように掲句を口ずさみながらさくらを見ていると、花びら一枚一枚と命が重なって人の巡りを思わずにいられない。
そしてまた、お約束のようにソメイヨシノが散ると八重さくらが咲き出す。これはぽってりと妖艶な遅咲きで、宴果てた人の心にぽっとまた灯を点すのである。この見事な連携は一体誰が考えたのであろうか。
平野俊一は今展でこの桜花に深く分け入り、雲のように捉えどころのない茫洋とした花の有り様と、まさに今朝ひらいた花弁のみずみずしさを同じ画面に共存させるという離れ業をしてのけた。たしかに人間の目は花の細部もかたまりも同時に認識するものだが、表現する段になるとどちらかに偏って矛盾のないように整理しがちだ。だが、平野は目に見えるままある部分は詳細に、ある部分はおおまかに、見事な緩急をつけてこれを表現した。平面を3Dで現したようなものである。おおまかに見せながら画面のすみずみまで配慮がされている、この視点の複雑化は平野の独壇場ともいえるだろう。
画家に専念するまえ平野は建築のパースを描くプロとして細かい図面と取り組んでいた。その反動ともいえる輪郭を失った描写であったのだが、そのなかにあっても微妙な神経は潜んでいて、大画面の遠近のバランスにその培った実力をいかんなく発揮している。
一見、なんでもないようでいて何故か引き込まれる理由は、この矛盾をみせないバランスのよさによる。さらにいえばそれ以上に、この花たちの美しい夢のような有りようが私たちをして「春の気分」に浸らしめるのである。
この季節にふさわしい、まさしく豪気なIn the gardenであった。

松崎和実展ー箔画Ⅲ

三度目の松崎和実展が始まった。「箔画」とは松崎の造語で、和紙に張った箔に描画し、それを切り抜いてアクリルに挿み額装上に浮かせて展示する形式をいう。日本画とも切り絵ともガラス絵とも違う、彼独特の技法に「箔絵」と名付けて発表しはじめて五年になる。
1969年宮崎生まれの松崎は、上京とともに前衛水墨画集団の「IZAM-Internatational Sumi Art Movement」に参加、2004年まで水墨画の世界で旺盛な活動を展開していた。その活動に一区切りつけ独自の方向に向かうきっかけになったのは、ある藩の江戸時代の魚類図譜を見る機会を得たことという。精緻な図譜に残された魚たちに魅了された松崎は、自ら編み出した技法でこれらに迫る現代の「魚類図譜」を描こうと思い立った。以来、ライフワークと位置づけて描いた「魚類」は今展で#186を数える。
2006年小林米子との二人展以降当画廊で毎年個展を開催し、その都度新たな出会いを広めて東京美術倶楽部「正札会」や、高島屋美術部企画の全国巡回「美術水族館」出品などで、その仕事を評価されてきた。2009年には故郷である宮崎の都城市立美術館で念願の個展を開催、初めて郷里の人々にお披露目するなど、着実にその努力が実を結びつつある。
初めて彼の仕事をみた人々は一様に目を丸くするのは、そのあまりの真にせまるリアリティによるからだ。描いた箔を切ってアクリルに挟むというのも常識を覆すが、箔を利用してここまで鱗を描いた画家がいただろうか。江戸期の図譜の克明さに驚いたという松崎が、それを上回るものを描こうとした時、発想したのは今までにない意表をつく技法だった。描くのは魚体だけではない。同時に物理的な魚影をそこに生じさせることで、あたかも水中にいるが如き絵画空間をつくるのだ。けっしてアカデミズムには発想できないこの方法によって、松崎は見る人を絵空事から水面へといざなう。
三度目の個展である今展ではますます腕に磨きがかかり、水深の深いところの魚には番手の粗い岩絵具の黒を、浅いところの魚には細かい水色をと使い分け楽しいコントラストを作っている。また特筆すべきは作品「頂点眼」の尾びれの描写だろう。この作品は写生によりながら、写生を離れた世界を醸し出している。古閑の格調があるとみたが如何か。
図譜の細密からまたひとつ世界を広げ、ゆったりとまた無心に水中にある魚と心を通わせ閑雅なひとときに遊ぶというこの境地に、松崎和実の新しい可能性を見いだしたのは私だけではあるまい。

斉藤祝子展ーRESONANCE

トロントから斉藤祝子が帰国、悦子画廊では二年ぶりの展覧会が始まった。
聞けば、海外生活もはや33年余になるという。1955年に栃木県足利市に生まれ、20代の前半にドイツに留学し民俗学と地理、美術を学ぶ。1990年にベルリン芸術大学大学院修士課程を修了し当地で画家活動をはじめる。2000年に制作の拠点をベルリンからカナダのトロントに移し、同時に日本で定期的に作品を発表するようになる。
ヨーロッパを主な発表の場にしていた頃はギリシャ神話から画想を得ていたが、カナダに移住して植物の「種子」をテーマに「HERBARIUM 」シリーズを展開、ゲーテの色彩論を基調に「種」を命の象徴として描く独特のスタイルを追求してきた。
近年は作曲家の武満徹の曲からインスピレーションをもらい、その透明で深淵な作品世界とシンクロするような絵画上の表現を模索している。特に今年は武満徹の生誕80年にあたる年とのことで、今展のあと秋には武満ゆかりの飛騨古川町の美術館でオマージュ展を予定している。彼女の武満作品への取り組みの集大成となるに違いない。
さてここ10年、カナダのトロントでじっと内面を見つめるように制作してきた斉藤祝子は、20代はじめからの旅を終え故郷に拠点を移すことも考え始めているという。33年という時間は短くはないーが、これからの時間もまた短くない。離れて暮らした日本とまた出会うこともあるに違いない。
またアーチストネームとして「典子」から「祝子」に変えて二年。同姓同名の画家との重複を避けるためというが、彼女の精神性を思う時、「祝う子」と書いて「のりこ」という名は必然の帰結のような気がしてならない。 地球上のどこにいても、魂の形を描き、魂のありかを探し続けている一族の一人のように思えるのである。
風に乗る「種子」がしばし土にとどまり命の巡りをするように、魂の旅人が故郷に留まり、どんなテーマと巡り会っていくのか、いよいよ楽しみになってきた。

佛淵静子 日本画展III

柴田悦子画廊では三度目の個展となる佛淵静子が登場。佛淵は1974年東京生まれ。’98年に多摩美大日本画科を、’00年に同大学院を修了すると個展やグループ展、公募展などへの出品を始め、当画廊との出会いは’07年の日本画四人展「plus#1」から。翌’08年に銀座個展デビューし,’09年の看護士シリーズで見物衆の耳目をそばだてる。
さて、正念場の三回目である今展。際立った人物の描写力があればこそ、佛淵ならではの「引き算」は生きて今年の画面は「線」の魅力を十分に堪能させてくれた。随分思い切った省略を試みたもの、と驚きをもってその鉄線描をみたが、毎日見ていても破綻を感じない。未完成と完成のぎりぎりまで自分を追い込んだその精神がみえた。
何年かその仕事を続けてみていると、格段に進化した、と思える時がある。本人には一歩ずつの階段でも、行くべき道が定まって集中して事にあたっている瞬間、ワープするのだろう。佛淵にとっては今展がそれだ。まだ未完であっても、紙を分ける一本の線が生きていた。
それがこれからの可能性を思わせて注目させる要素になったのだろう。今展では多くのコレクターが熱い視線を送ってくれ、いい出会いをもたらしてくれたことを特に記しておこう。
とはいえまだ三十路なかばをすぎたばかり。これからまた挑戦していくことは多い。和紙の空白が、空間として生きるために一本の線がどのくらい魅力的なものになって行くのか。先人たちの歩に学びながら、佛淵独自の「線」というものを目指していってほしい。
本展の作品たちに囲まれながら、この画家の震えるような神経が描く次の一作を夢想したのは私だけではあるまい。
明日咲く花のつぼみは、もうふっくらと膨らんでいる。

押元一敏展

2000年の展覧会以来、十年ぶりの展覧会が今日から。
押元一敏(おしもとかずとし)は1970年、千葉県生まれ。1995年に東京芸術大学美術学部デザイン科を卒業し、’97年には大学院修士過程を修了、2000年に博士後期課程美術専攻満期退学した。その後2001年から’04年まで母校の非常勤講師、’04年から’07年まで常勤の助手をつとめ、現在は非常勤講師である。
’95年の学部卒業時には優秀な学生に贈られる安宅賞を受賞、同年から個展やグループ展など旺盛な活躍を始め、修了制作にはデザイン賞、’98年には三渓日本画賞展大賞を受賞するなど、華やかな存在として知られている。
東京芸大のデザイン科に在籍していた頃はアクリルと岩絵具の併用で制作していたが、徐々に膠の魅力に惹かれ和紙に岩絵具という日本画の手法を選んで今に至る。
もともと琳派などは意匠的な発想から生まれたものだけに、デザインと日本画は切っても切れない関係にあるが、芸大のデザイン科に日本画を描く学生が多くなったのは、押元が在籍当時に日本画家の中島千波先生が赴任した頃からと記憶する。洋画家の大藪雅孝先生と日本画の中島千波先生という優れた画家のもとで、助手や講師を勤める経験が、押元の作風を多様なものにしてきたのだろう。初期の人物や心象風景に留まらず、花鳥や静物などにも果敢に挑んできた。
近年は日本の仏教美術や世界の宗教美術の世界へと分け入り、そのフォルムからインスパイアされた作品を多く描いている。特にロマネスク美術の彫刻、ビザンチン様式のモザイク画、イコンに強い興味を示し、その精神性を学びつつ自己の表現へ昇華すべくさまざまな試みに挑んでいる。
今展もその一環で、「天使像」のトルソを連作で描いた。トルソとはご存じのように頭や手足がない胴体のかたち。天使には普通「天使の輪」がつきものだから、随分思い切った省略をほどこしたもの。前展では、大天使ミカエルなどその形象も意味も明確にわかるものを描いたが、描いているうちにどんどん抽象化が進み究極のトルソにたどり着いたのだそうだ。
まるで今日発掘された遺跡のように、わずかな光をまとうだけでそこにあるものたち。絵具を盛り上げ、削って線刻し、また色をのせる。何度も繰り返されたこの行為によって、何世紀もの時間によって風化したような印象の絵肌になった。
彫刻をつくるつもりになって描いた、という。十枚の連作も少しずつ色も形も変え、画面を刻んだ。天使の象徴とした「羽根」も形を最初から決めずにゆるやかに描き進めた。人体に羽根という形象は洋の東西を問わず、人間と神界をつなぎ、自由に往来する象徴として神話には必ず登場する。それを「ぎりぎりまで削ぎ落としたフォルム』の一部として描いたのには、羽根の象徴としてのオーラに思いを託すという意図によるのだろう。
画家としてこれから飛躍する時期を迎え、まず自身の内在する志向をつきつめたいとこれらのトルソに向かった押元一敏は、制作のなかで静かに「自分の天使」像を見つめ続け、抽象一歩手前までシェイプする作業から一番フィットする自分の色と形を見つけた。
あらためて聞けば山口長男やマーク・ロスコなどの仕事からも刺激を受けるのだとか。柔らかく全てを受け止め、自分の心にかなうものを時間をかけて選び、ためらいなく描く―おだやかな押元の人柄を思う時、その底にここまで何かを希求する強さがあるとは驚きだが、だからこそ順風満帆のこの時期にここまで冒険をするのだろう。
この仕事の舞台として選んでもらったことをうれしく思う次第である。

直野恵子展ー9回目の個展

直野恵子のこつこつ重ねた歩みも今年で九回目を迎えた。おー九回目か、と改めて直野恵子の愚直ともいうべき努力を思う。
1997年の開廊時にはまだ女子美大の学生だった彼女が、2000年の「文月展」でグループ展デビュー。翌年から個展の道中となった。初個展の時には、緊張のあまり顔もあげられず具合が悪くなって帰ってしまったことも。
真剣なその制作姿勢は今もかわることなく、悩みつつもその歩を進めている。画廊の看板の字を揮毫して下さった工藤甲人先生のアトリエは「蝸牛居」といい、そのいわれを尋ねたところ42歳でようやく上京し画家として立った遅蒔きの自分に、蝸牛の歩みをなぞらえ漢詩「百尺竿頭進一歩」の「遅く見えてもいつの間にか百尺を渡っている」という気概を託したのだという。
直野恵子を思うとき、いつもこの先生の言葉が浮かんでくるのは何故だろう。おそらく迎合ということをしらず、ひたすら自分の心を恃んでその求めるままに歩む彼女の姿を、ただただ見守るしかないからだろう。そのかたくなな殻も内部の柔らかい感性も全てが絵に向けて集約されていることにある時はあきれ、ある時は感心してきた。
絵を描かずにはいられないこのモチベーションは絵描きには不可欠なものだが、それが外部に理解されるまでの時差はそれぞれだ。独自性と普遍性を同時に成り立たせることは実に難しい。
だが、直野が拘る世界観と詩情がひとりよがりにならず、見る人の心に届くまでこの歩はたゆまず進むのだと思う。そして九(十)年一日の如くの試行錯誤が今、少し道が拓けたようにみえる。今まで自分だけに向かっていた心が、外に開かれたような印象の絵になったのだ。
静かな霧が立ちこめる冬の情景に託した心象は具象にも抽象にも思え、美しい余情をたたえる。このなめらかで清い気配は、俗を嫌ってはいるが人を拒否してはいない。自分のエゴを消し去って無心に絵に向かった清々しさが人を誘い込むのだろう。
この一連の作品が九年目の成果というものだろう。そしてこの手応えをどう次の一作に伝えるか、いよいよ楽しみな十年目となって来た。

木村浩之展

待望の木村浩之展が始まった。年末の九州場所が終わって沖縄巡業を経て帰ってくる親方連を迎える時期にということでこの期間に。満を持した画家の「木村山」を待ち構えた体重だけは貫禄の「柴田部屋親方」。
モデルにお願いした元若駿河関と阿武松(おうのまつ)部屋の親方も木村浩之のために駆けつけてくれ、一気に画廊の空気は晴れがましいものになった。
よく「ハレ」と「ケ」というが、「ハレ」の場である本場所中にも「ケ」の時である朝稽古にも、木村はスケッチブックをもって日参し力士たちの姿を写して来た。一瞬も気を抜けない力士たちの動きを追い、ふでを走らせる。毎日を一期一会の機会と思い、その瞬間を積み重ねる作業が木村の作品にリアリティを与えている。
年間百番を越える取り組みに、一つとして同じ展開はない、と木村はいう。手に汗をにぎり、次の瞬間を待つ。目は土俵を追い、手はスケッチブックのうえを走らせながらつかんだものがそのまま絵になる訳ではない。多分何千枚とあるスケッチから「この瞬間」と思える時を描くのだ。
木村浩之の描く「相撲」は普通のスポーツとは違う。木村は力びとの乾坤一擲に画想を得て、紙のうえにその神聖な営みを構築し密度の濃い磁場をつくるー木村の目と手を通して描かれた「伝統」は、いきいきと脈打ち、熱気をおびた「命」として立ち上がってくる。
浮世絵以来、この魅力的な素材に向き合おうという画家は絶えてなかったといっていい中、木村は果敢に挑み道を拓こうとしている。単なる肖像画でなく、血の通った力士の生きる場を。だからこそこの伝統的なるものを描いてなお新しい感覚を伝えるのであろう。
木村がタイトルに使う「発揮揚々」という言葉は行司のおくり出す「ハッキヨーイ」という発声とともに「ことだま」としてよみがえって、千年も繰り返されてきた「相撲」という行為の意味を思わせ、翻っては作品に込めた彼の願いをしらしめるのである。
1975 東京生まれ
2003 多摩美術大学日本画科卒


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