板東里佳展ーShadow of Color

四日前まで摺っていたというほかほかの新作を抱えて二年ぶりに板東里佳が帰ってきた。版画家・板東里佳とのご縁は2000年の個展-Streams of New York-に遡る。以来、二年に一度のペースで発表を続け今展で五回、早いもので十年に及ぶ道中となった。
板東里佳は1961年東京に生まれ、1984年に渡米するとニューヨーク・アカデミー・オブ・アートで1990年まで彫刻を学び、その後2000年までアート・ステューデント・リーグ・オブ・ニューヨークでリトグラフのコースをとっている。
在学中の1999年にJames R.and Ann S.Marsh・メモリアル・バーチェイス・プライズ ハンタードン美術館で賞を受けたのをはじめ、意欲的にコンクールやグループ展に出品して受賞。2000年からはいよいよ日本とニューヨークで個展を開催し始める。
それ以降の目覚ましい精進ぶりはあえてここに書くまでもないが、作品世界の深まりとそれを支える高い技術力として結実し、緊密で浄化された世界へと私たちを誘う道標となったのである。
私が見た作品の、最初はメイソン・ジャーシリーズだった。彼女がいつもいる台所からみた窓際の光景。そこにさりげなく置かれた保存用のレトロな瓶。その瓶に映り込むブルックリンの光景は、透明な光に満たされた美しい断片だった。清潔で、だからこそ少し孤独な陰影を感じたことも。
次に見せてくれたのは、その窓を開けて下を見下ろしている構図だった。雪解けの道に車が付けた轍。その無作為な抽象の面白さを丹念に構成した作品や、白をいかに美しく見せるかに心を砕いた雪景色などの一連の風景シリーズである。
また次には外に飛び出し満開の桜を描いた。桜のあでやかなピンクの隙間から無窮の空。これ以上ないというきりりと粋な桜花ー取材したブルックリンと北海道の桜はともに大輪で見事な姿だったという。
友人の句に「雲を透き 花を透かして 降るひかり」というのがあるが、次に里佳さんが向かった先は光に一番近い雲。雲のドラマもまた見飽きないものの一つだが、「天使の階段」と英語で言われるところの、雲間の光に挑戦。雲を透かして光が織り成す一瞬のショーを白と黒で見事に表現した。
前回はその光が地上に届いて地面に陰影を与える「木漏れ日」がテーマ。風のそよぎとともに一時も同じ姿を留めない揺れ動く形象を、ごく薄の手漉き和紙「阿波紙」に託して刷った。紙を洗濯ピンでつなぎ壁に添わせた展示とともに印象深い。
こうした軌跡を経て、今回のテーマである「Shadow of Color」に至るわけだが、「光」を描くために木の「影」を丹念に描くという発想は、どこか東洋画の思想を思わせる。地面に揺れる木漏れ日から木の幹へ焦点は変わり、光が作ったシルエットとして樹々が表す情景をこれ以上ない位ほど緻密にとらえている。
このように繊細にものごとを感じる人の常として、画面の隅々まで神経が行き届くよう仕上げるものだが、今展で私が感じた大きな発見は「余白」である。リトグラフの黒を白の幅をメゾチントの幅まで広げたいと技術に磨きをかけて来た板東里佳の仕事は、黒のニュアンスを広げるとともに、「何もない」とおもわせる「余白」の白にたどり着いた。
手を抜いている訳ではなく、計算されつくした白の空間。白が空間として成立するためには、黒がよほど描けてなくてはならない。今展の制作を通して、そのためのあらゆる努力をした姿が偲ばれる。
“Simple Gift”Pin Oak と名付けられた4連作ではこの「余白」が見事に生かされ、光が自在に樹々と戯れ、様々なムーブメントを作り出しているさまが見事に描かれている。鉛筆の風合いが出るように、インクの調整に気を配り、色の深度まで計算して版まで変え、しかもその努力の跡がみじんも作品にとどまっていない。これは凄いことだ。
最初、なにげなく見えたものが時を追う毎に深みを増して、色んな姿を見せはじめるー一週間、この作品たちとともに過ごした私の実感である。これら今展の作品たちは「生き物」のように見る人の心を巻き込んで動き出すだろう。傑出した作品と思う所以である。

松崎和実展ー箔画Ⅱー

松崎和実の箔画による展覧会が始まった。松崎は1969年宮崎県生まれ。96年に上京し、墨を使った画家集団ISAM(International Sumi Art Movement)に参加、墨を使った実験的な作品に挑んでいく。数々のグループ展や国際展を経て、2004年に初個展。その後、薄美濃紙の上の箔に描き、切り抜いたものをアクリルの板に挟んで額装するという離れ業を編み出し「魚類」をテーマにユニークな制作を続けている。
二人展も含めると二年ぶり三回目になる今展でもその驚くべき超絶のワザで圧倒し、彼の描く魚たちのリアリティはご見物衆の目から鱗を取り払ってうならせている。
もともと墨のつけたてを修業した腕があるうえに、魚たちに対する突き詰め方が尋常ではない。いかに生き生きと自分が感じた魚を描くか、を追求したあげく描いた魚を紙から切り離すという、普通思いつかないような発想を得たという。浮かび上がらせて光を当てると額の底に魚影ができるーこの影が絵に描いた魚にさらなるリアリティを与え、美しさを添える。
この技法に「箔画」と名付け、二年の歳月を費やした一対の大作が今展の収穫。春夏と秋冬の旬の魚たちを螺旋状に描いた「魚の柱」はその描写の細密さと形状のシュールさが相まって見事な海の物語となっている。
もともと江戸時代のある藩の魚類図譜から啓蒙されたという魚作品だが、すでに図鑑のレベルをはるかに超え魚類の神話とも言うべき世界を紡ぎ出しつつあるように思う。
この没頭が生み出す狂気のような力はタブーを恐れない。江戸期の若冲にしても狩野派全盛の時分にあっては異端の謗りを受けていたというではないか。誰も見た事がない世界を描きたいという野望は自分自身さえそれがどこから来ているのかわからないものだろう。
松崎の目指している先がどこであれ、自分が静かに熱狂しまた回りもその熱を共有できるような世界であることは間違いない。そのメッセージを発信するのに絵筆という得物を見つけ、自在に発想していく勇気と追い求める根気をもつ彼が、私たちをどこまで連れていつてくれるかーーこの「海の神話」に魅せられた私の期待はいよいよ増すばかりである。

小番今袴・曽根光明(深雪)二人展

今年最後の展覧会となる今展、銀座初登場の二人をお迎えした。「聖夜の樹々たち Trees at Holy Night」と題された展覧会はまさしくクリスマスの渦中の銀座で、聖歌とともに幕を開けた。
まず二人の名前の読み方からご紹介しよう。小番今袴さんは「こつがい・きょうこ」と読む。曽根光明さんは「そね・こうみょう」である。小番さんは本名だが曽根さんの名は雅号。本名は深雪という。ここでは簡単に小番さん、曽根さんと呼ばせていただくこととしよう。二人の出会いは曽根さんのご友人が小番さんの作品を求めたことから始まった。この作品を見て天啓を感じた曽根さん、即座に山梨に住む小番さんのところに車を走らせ意気投合したとのこと。
お二人の画歴もまたそれぞれで、小番さんは中央大学の法科出身。薬草の研究者だったお祖父さまの薫陶を受け、薬草やアロマのセラピストとして活躍するうち、夢でみる光景を身近にある木の葉やパステルで表現するようになったという。治癒アートinパリやカンヌ国際展などでの受賞をきっかけに本格的な創作活動をはじめ曽根さんと出会う訳だが、一方の曽根さんは多摩美術大学日本画科出身。加山クラスで安住さんと同級のご縁で悦子画廊に。卒業後は教員として長くキャリアを積まれているうち絵筆を持つ機会も少なくなっていたところ、小番さんに出会って画家魂がふつふつと沸きあがってきたらしい。
そんな二人の共通項はセラピーと絵画のエンカウンターというところか。遠くウィリアム・ブレイクが魂と芸術の融合を夢想したように、何か不思議な力が働いてセラピストとしての二人を絵の世界に引き寄せた。
聖夜の樹々に宿る妖精や、山野の葉の群れから覗く天空など詩情ある世界が、訥々と、しかし情熱的に描かれていて、まさにクリスマスの贈り物のようだ。そして銀座での展覧会を決意したお二人にとっては、この会期こそが天からの贈り物だったに違いない。勇気を振り絞って発表することの意味をそれぞれに感じ取っていらしたようにお見受けした。
そのお二人の第一歩を祝福してご家族はじめいろんな方が画廊に集まって下さった。築地の社長からも七面鳥の丸薬が届き、夢のような聖夜となったことをご報告しよう。七面鳥はぱさぱさして美味しくないという観念を覆す味だった。重ねていうが七面鳥はうまい!来られなかった方にせめて画像でその一端を。
さて、今年も残りあとわずか。走馬灯のようにめぐる今年の展覧会たちよ。一展一展に真摯であったか、走り抜けてきた身に反省のいとまはなかったが、せめてあと数日去年今年の感興を胸に佇んでみるとするか。お付合いいただいたご見物衆に、心からの謝意を。来年もまたよろしくお願いいたします。

山田りえ展ー11度目の個展

画廊最多登場の一人・山田りえの11度目の個展が始まった。昨年秋に腰を痛めて一ヶ月余の入院を余儀なくされた山田りえだったが、見事苦難を乗り越え、奇跡の復活とあいなった。この11年を振り返れば様々な事が思い浮かぶ。しかしどんな時でも絵筆は捨てなかった。逆にそれをバネに絵に打ち込んできた、ともいえる。
この力がどこから出てくるものなのか、そばにいながら摩訶不思議なことと舌を巻いてきた。特に締め切り間際のミラクルは本人も訳が分からないという。
今年は前半に百貨店での個展を開催、腰の不調を感じさせないほど多くの作品を生み出した。今展の作品もまた小振りながら成熟した気品を感じさせるものたちだ。細微にわたる描写は、花と葉の密度をよくとらえ間然するところがない。
暑苦しいほど迫る量感がなかったのは少し残念だが、心技体ともに変わり目を迎えている時期ということなのだろう。じっくり構えて次の一手を考えることも必要なこと。走るばかりがいい訳ではない。
山田りえが次に何をしてくれるのか、わくわくしながら楽しみにしている人は多い。かくいう私もその一人だ。まだ見た事もない、途方もない美しいもの。目を奪われ心をわし掴みにされるもの。かつて彼女のお父上が外国のお土産を広げてみせた時、そのきらきらしたものたちが彼女を虜にしたように、魔法にかけて欲しいと願っているのだ。
この道は長い道のりー次の道中に何がでてくるか、りえ姫の道中双六はまだまだ続く。

渡辺真木彦個展デビュー

渡辺真木彦展が始まった。今展の案内状に彼が用意したコメントからまずご紹介しよう。

[感動とは作られた装置である」
わたしたちが美しいと感じることの多くは他人の認識の追従である。自分の感動は他人によって作られているともいえる。 今、はやっている音楽やファッションは「今はやっているから」好きであり優れた絵画は「優れているから」からすばらしい。

私も例外ではない。しかし、多少の抵抗は試みたいものである。
いつか結果として新たな「作られた装置」を作ることになったとしてもそれが出来れば本望である。

多摩美大日本画科を卒業後十年余りテレビ制作の仕事に関わり、情報の大海のなかをその作り手として泳いできた渡辺真木彦は、三十半ばにしてふと立ち止まり本来の自分がなすべき仕事を再度発見した。個展という形で実現したその第一歩に、楔のような形で上記の一文をよせたのは非常に興味深い。「作られた感動」に対する懐疑は、すなわち自分と世界の一体感、いいかえれば絵を通していかに他個と結びあえるかという希求に端を発することである。
ここを押すと「感動」する、というスイッチはない。それぞれが抱えた記憶や培った感性、もっと大げさにいえば生物としてのDNAが呼び覚まされるような体験は時に思いがけない形でやってくるものだ。情報が飛び交う昨今の世相のなかにあって色あせる「感動」に、もつと「生」な感触を欲した渡辺真木彦が「絵描き」という旅人を志したのはそう無理な話ではない。
旅人といっても、彼が主に描くのは子供の頃から覚えのある浦和や荒川周辺。自分の足で歩きながら風や光を感じた風景ばかりだ。ある時は夕方、ある時は真昼、そしてある時は早暁の光に感応し、空の色、雲の形を追いかけた。一見何でもない風景が長く心に残る場合がある。その普遍の記憶へ遡り、一瞬の光景を絵に託した。
渡辺真木彦の琴線に響く一瞬は、果てしなく変わりゆく時間が幾重にも積もってできる。子供のころから泣いたり怒ったり笑ったりしながら、何度となく目にしたであろう身近かな場所が永遠の聖地になる一瞬だ。この感覚を凝縮した先を是非また見せてほしいと心より願うものである。
今回の初個展にあたってはご家族をはじめ多くの方から、励ましのエールをいただいた。謝意とともに改めて旅立ちを祝いたい。

藤井隆之陶芸展

2002年のデビュー以来、3度目になる当画廊での藤井隆之個展がはじまった。1973年広島で生まれ、東京芸大工芸科で陶芸を専攻した藤井隆之は研究生の頃からその卓抜な彩色の技術で定評があったが、個展デビューするやその人気に火がつき、瞬く間に若手陶芸家として最も作品が手に入れにくい作家の一人となった。
伝統工芸展や高島屋・三越・京王など各百貨店で作品を目にした方々からの熱い視線を、今回はより強く感じることに。初日開廊を待ち構えてドアの前に何人もの列ができたのも驚きだが、なかなか届かない作品を待ち構えて、何度も足を運んで下さったお客さまに改めてお礼を申し上げたい。また遠方からいらして下さった方がたにも。
本人はしばらく窯から離れられず不眠不休の作陶生活のなか、初日のにぎわいをしらないが、誠実に手抜きのない作品を仕上げてくれた。蓮の大鉢のたっぷりした量感と品のいいマットな色調は見事の一言。また最近手がける黄磁の彫りの切れのよさは、この分野での未知数の可能性を示すもの。さらに透明釉と無釉の間の半透明ともいうべき微妙な釉も加わって、35歳という年齢をこえた卓抜な風格を感じさせる作品も。

さまざまに挑戦し、一つ一つの完成度に拘るあり方は、学生の頃も今も変わらず、深化し続けている。今展では吹き染めの絵に一段と美しさが加わり、爽やかな一陣の風が作品の回りにただようようだった。陶器というジャンルをこえて美しいものがそこにある、という存在感を示せる作家はそう多くはあるまい。
藤井隆之の目指す頂点の美に、一歩一歩歩むだけだ。その作家の最前線の仕事を今、この場で大勢の方と共有しているーその思いが今回特に強かった。リアルタイムに窯から出て来たばかりのほかほかした作品を展示する喜び。それを見る喜び。手にする喜び。陶が生きている、と感じる瞬間だった。
作品にオーラのようなものがある、とすればそれはこのライブ感ではないだろうか。エネルギーにあふれ生きている、という感触こそ、作品の美しさと相まってここまで人を夢中にさせる訳だと思う。よかれ悪かれ作家の手から生み出されたものは正直に作品に反映される。藤井隆之の無窮を追い求める魂が、作品という一個の塊となった。そんな展覧会だった。また、大きくなって帰ってきてほしいと心から願うものである。

松村響子展ー十七字の世界 其の二

三度目の松村響子展が始まった。1994年武蔵野美術大学日本画科を卒業すると、教師などの仕事をこなしながら果敢に個展に挑戦し2005年から当画廊で発表しはじめたのも記憶に新しい。
今では無所属も珍しくもないが、彼女が学生だった頃はさかんに団体展に出品していた頃。そのなかで一人我が道をゆく行路を選んだ。当然、手探りの道である。2005年の個展時には岩彩の色鮮やかな作品も多くならんだ。今まで描いて来た歴史を一度吐き出したのであろうと思われる多彩な作調だった。
それら作品と一週間ともにいて、墨彩の作品になにか手応えを感じたのであろう。これを究めてみたいと、果敢に墨に挑戦したのが昨年だ。

また、お母上が主宰する俳句結社の編集に携わることになり、二足のわらじを履いて怒濤の日々に突入することになる。俳句総合誌から、投句の依頼も受け若手俳人として誌面を飾る事も多々。その二つの世界の境を超え、自分のなかで言葉と絵画を出会わせたいと願って今展の作品たちは制作されたときく。よく自画自賛というが、文字通り自画に自賛を付ける。その試みがされなくなってもうどの位たつのか。もちろん手放しの賛とは違って、俳句を付ける場合はつかず離れず。絵と詞の間に微妙な距離が必要だ。
これをするにはそれぞれの世界に深い知識が必要とされる他、当世では専門化が著しく、絵は絵、書は書、詞は詞の領分を侵さないことになっているから、ここに敢えて手をだす人はいなかった。
江戸期の蕪村先生を持ち出すまでもないが、近くは玉堂先生がその道の名人で、達者な筆の解読が私の仕事だった時もある。名人が絶えて鶴太郎先生の世になったが、誰も異を唱えない。これでいいのかと思っていたら、松村響子が手を上げてくれていた。
大変な道である。まず付け立てからだ。しかも女文人だ。えてがみもいい世界だが、なにか甘い。楽しい!から苦しい!へいってまた肩の力がぬけて楽しい!だろう。まぁ、創作上のことは人には見せないほうが美しいから、これからの松村響子の精進は秘密裡に行われると思うが、絵画と詞と両方ご縁があった境遇を、運命のようなものと思って極めてほしいと思っている。
ちなみにDM作品の画題ー夏月夜 たましい千里の 旅にたつーは墨と銀彩の移ろう作品と相まって玄妙な世界観を表現している。幽界とのさかいめをつなぎ、しかも心が自在に行き来する、というのは絵画と詞の出会いを願う松村響子の一つの境地を示す好例と思うが如何。

高石久仁子展発進!

高石久仁子展が今日から。多摩美大学院を卒業後、数々のグループ展を経て昨年悦子画廊デビュー。今回が個展二回目にあたる。まさに体当たりで絵にぶつかるような迫力が日本画離れしているが、細心に金箔や銀箔を施し、絵具を塗っては洗い落とす作業を繰り返して求めるマチエールを作り上げているのが特徴。
画家たちの作品と一週間ともにすごしていると、絵と画廊の空気がなじんできて、やはりその画家ならではの「色」と「匂い」がある、と気付かされる。その特有の空気をなんといえばいいのだろう。
一年間、画室で呻吟したたまものーその宝物たちは見事に画家たちの今を映し出す。前述の作画における大胆さと細心さは、高石本人のたたずまいと見事に重なって「ここがこう見えるんだ」と言葉より前に本人を語りだすのである。
今展には三浦海岸や沖縄・久高島の漁村を取材した大作の他、身辺の草花を描いて高石ワールドを展開してみせた。少し寂れた、しかも人の気配のする海辺を丹念に取材して、骨太の存在感を表現しつつ、その光景の残光のような余韻を繊細にとらえたいのだ、と語りかけてくる。
取材地の久高島では、泊まった民宿でおばぁにつかまり結局手伝いをして帰ることになったそうだ。観光地・沖縄ではない、どことなく生活の匂いのする島の陰影が作品として誕生するきっかけはこの一事に集約されるように思う。どこにいってもどこか寂しい鄙びた情景が彼女の供だ。明るい光線は影も濃いというではないか。人とかかわり人が好きで、それと同じくらい人と離れたいと願うのはそうおかしなことではない。
乱暴なまでに筆をふるいながら、その背景にせつないくらいの心くばりを忍ばせて、自分の描きたい絵を描く高石の旅はこれからがますます楽しみになりそうだ。また、旅の残滓を発酵させてわたしたちの前に広げてみせてくれるに違いない。

 

直野恵子展ー八回目の個展

LABO展の20回目には及ばないとはいえ、29歳からスタートした個展も今年で八度目。独特の詩情に満ちたその作風をモダニズムの純文学と例えた方が今年いらしたが、まさに超絶写実とアニメが席巻している昨今の画界のなかにあっては孤軍奮闘の様相。
とはいえ頑固なまでに自分の描きたい世界に拘る直野恵子に迷いはない。年に一度個展をすると決めて以来、生活の中心を絵の制作におき常にそれが第一のくらしぶりだ。今年は「かざぐるま」の回る姿を写生したものをモチーフに200号の大作にチャレンジした。
広い草原のなかで一斉にカザグルマが回るその画面からは、キラキラした空気が拡散し画廊中に光が満ちた印象となった。自分の心のなかに入ってその心象を絵にするという行為を繰り返して絵を描く直野に、なにか他のものとの出会いによって化学変化をおこしたらどうかと進言したことがあったが、彼女なりの挑戦がこの大画面だったのかもしれない。十数センチのエスキースの宇宙から発想して野原のような壮大さを表現しようとする意欲にはやはり頭がさがる。これをもっと熟成させるには、まだまだ努力しなくてはいけないだろうが、彼女には彼女の努力の仕方がある。一歩一歩確認しながら手探りで歩んでいるということなのだ。わかる時まで物事はわからない。時期がくれば自明なことも歩んでいる最中は無我夢中で存外気がつかない。我が道を極めようとしている人にだけに降る、これだったんだ!という神様のプレゼントに直野が預かれますように、私は柱の陰からそっと祈るばかりだ。

きっと堀文子先生がいうように自分の毒を吐き出しきってその運命を生きる時、直野が本当に目指すこの一枚が出来るのであろう。

阿部清子展

柴田悦子画廊では三度目の個展が今日から。人物、時に顔と手を描くのが好きという阿部清子の今回の仕事は墨の比重が高かった。
阿部は1970年東京生まれ。現在も鬼子母神近くに住む地元ッ子だ。小さい頃から墨絵や掛け軸など古い日本画に触れるのを好んでいたというから「三つ子の魂」を今も大事に持ち続けているのだろう。今回聞き出したところによると、母方のお祖父さまは嘉納治五郎門下の柔道師範で千住に道場をもってらしたとか。父方のキリスト教文化と日本の武道文化の織り成すところに記憶の原点を持ち、感性を養った彼女は長じて「人」を描くことによって自分を表現する画家として発表し始めた。
ご夫君の転勤に従って沖縄や中国・長崎や淡路など転々としながら各地で人の顔を描くワークショップを開催し、初めて出会う人々の顔を描きながらコミュニケーションを深めその地の空気を絵にしてきたが、数年前に佐藤美術館でグループ展デビュー。それを期に個展を志し、三年前の初個展と相成った。
描きたいものがストレートに全面に出てくる斬新な作品には強さと弱さが混在し、不思議な存在感を伝えていたものだったが、今展では墨のグループ展を控えているため、墨による線描作品が多く描かれすっきりした印象だ。
その白と黒のシンプルな壁面に、ひときわ強い存在感をしめすのは、個展サブタイトルとなった「多感のすすめ」8号。「学問のすすめ」やら「家出のすすめ」やら色々世の中には啓蒙本があるが、「多感」を勧められるとは…。なるほど目は口より心を伝えるもの。この少女の目線が投げかけるものは、それぞれの心に落ち着いて各自の中で増幅していく質のものだ。紙と絵具に過ぎないものが、このような聡明で多感な感情を伝えるとは絵ってなんと面白いのだろう。
大胆な墨つかいと抑えた岩絵具のバランスが今展の見どころ。阿部の成熟に従って絵のなかの人物も刻々とその表情を変えていくのを、展覧会ごとに追いかけていくのも「生きている画家」の作品を見ていくもう一つの楽しさ。いくつもの山や谷を乗り越えることによって成長していくタイプの画家と思うが如何?

LABO展ー20th

LABO展は、1984年多摩美大日本画科卒業の三名と院卒の二名をメンバーとして1989年に発足した。世は昭和から平成に変わりバブルの波もまだ高かった頃だ。銀座の古いビルの一室にあるギャラリーで産声をあげた時は、まさか20年も続く展覧会になろうとは思ってもいなかった。回を重ね、メンバーが麒麟、越畑、平野に固定して来た頃に、当画廊がオープン。以後、軌を一に歩を進めて来た。それぞれが全く違う個性を持ち、画風も異なるメンバーだが、この展覧会の折りには、今までの仕事を脱皮するような事をしようと決めている。名の通り、実験の場として機能し、この展覧会の制作がバネとなって個展へと展開する流れができてきたように思う。20回目のアニバーサリーにあたる今展は、今までを振り返りこれからを展望するいい機会となるであろう。画家として二十歳になったメンバーと共にこれを言祝ぐものである。
柴田悦子画廊 柴田悦子

黒羽よしゑ—夢みる帽子展

フェルトを素地にしたアートフルな夢見る帽子を制作する黒羽よしゑの銀座初個展が今日から。
現住する岩手盛岡にほど近い小岩井農場に産する羊毛を手染めしたフェルトは、脂をほどほどに含んでいるため汚れにくく柔らかい。気の遠くなるような工程を経て丁寧に叩き込まれたフェルトの繊維が作り出す色彩のハーモニーに魅了され、九州から東北まで多くのお客さまが集まって下さった。
作家の黒羽さんはデザイナーを経て、故郷でこの素材に巡り会った。ご夫君の経営する家業の傍ら、台所でコツコツ制作を続けてきたのだという。もともとが美術ファンであり、私淑する画家さんの作品に啓発されたことから現在のような作風を紡ぎだした。
夢見る帽子ーと題された作品たちは、帽子という形態はとっているが、そのまま壁に飾って鑑賞に耐えうるもの。そのうえ頭の乗せるとその人を別世界に連れていってくれる。自由で想像力を刺激する要素に満ちた装置なのだ。
帽子という、考えると不思議なものー。防寒や日よけのみならず、その人の位階を表したり、孔雀のように異性を引きつける役割や逆に存在を隠す役割をになう。それでいて、なくても別段困らない。フェルトという素材を使うなかに「帽子」を表現手段に選んだ黒羽さんは、この役に立たないーというところに美の本質を見ているような気がしてならない。役に立たないが美しいもの。純粋を突き詰めると役などという所を通り過ごしてしまう。しかしその純粋さは、用いる人の内面の美しさをひきだすもの。出会うーエンカウンターということは作品と人を結びつける魔法だ。
黒羽さんが、台所でコツコツフェルトを絡ませながら作る帽子は、まだ見ぬ、それを手にする人へのラブレターともいえよう。自分の希求する美しいものと響きあってくれる人へー仕事を全て終えた深夜にその作業は始まる。夢を紡ぐにふさわしい時間だ。
右画像はその夢を支え続けて下さっているご夫君とご子息・しんちゃんほか大事なお友達たち。ご来廊の皆様のお顔が、帽子をかぶる度に明るくなっていくのを不思議な感動とともに目撃させていただいた。スペシャルサンクスを!

木下めいこ展

京橋の林田画廊さんとの共催による木下めいこ展が二会場ではじまった。木下さんは1977年東京生まれの鎌倉育ち。2000年多摩美大日本画専攻卒、2002年に同大学院を卒業したのちはグループ展や個展、コンクールなどで才能を発揮してきた。
学部時代に国際瀧富士美術賞、大学院時代には第三回ノキア・アート・アワード アジアパシフィック2001では日本グランプリを受賞、卒業後の2003年には第一回奈良万葉日本画大賞準大賞を受け、キラ星のように開花した画才と意欲は結婚・出産という人生の一大イベントを経験したあとも弛むことなく伸び続け、今展の二会場同時展覧会へと繋がってきたのである。
たまたま縁あって卒業制作時の多摩美大のアトリエに足を運ぶ機会があった私に、重厚でゴージャスなインパクトを与えた木下さんの画風は、その後林田画廊さんでの個展で再会したおりには華麗で洗練されたものに変わっていた。
毎回進化も深化も遂げている彼女に、もっと引き出しを開けてほしいと願って依頼した今展では、カラフルで平面的な構成の作品に挑んできてくれた。この空間でなければ出来ないことを、と考えて入口には柿渋で染めた黒い花と白い花のインスタレーション。錫箔に岩絵具のたゆたう空間とした「空」という作品に絡ませて風の動きを感じさせた。
また、100号大の作品を40cm角に切り取り、それを重ねて下の墨線を見せるなど随所に才覚を感じさせる仕事が光った。一方、林田画廊さんでは墨色をベースに箔を随所に使い、従来の仕事の重厚さを見せる展示。まだまだ彼女の頭には、色んな構想が詰まっているに違いない、と思わせて余りあることだった。
時間が有り余っている時ばかりに絵を描く訳ではない。どんなに繁忙でも、描くという熱意につき動かされる時、時間は縦横無尽に伸び縮みする。懸命に生きている人にだけ与えられる神様の贈り物というものだろう。更なる飛躍を祈るものである。

越畑喜代美展ーお茶会風味 お月見編

越畑喜代美のお茶会風味 お月見編と題した展覧会がはじまった。今回は特に竹製のなんちゃってお茶室を設営。秀吉の一夜城のごとく、越畑旦那と大本の旦那が魔法のように竹の茶室をしつらえ、お茶の姉弟子・摂子さまが風炉を置くと、あらまぁ素敵な二畳台目の空間に。
恒例となったなんちゃってお茶会も、今年は茶友のご参加もあって本格的なお手前に。お花は遠州流のまぁちゃんが立花を供えてくれたほか、吉田氏が家蔵のゆかしい品々を添えてくださり気分はすっかりお茶人風味。
去年はカニを超えるかもしれないカニ風味、と例えたが、やはり風味で抑えておかないと、越畑画伯の気分とは違う。もっと寛いで、スローなお茶会が目指すところ。お月見的な作品を目の端に入れながら、間違いだらけのお手前に笑い楽しんでもらうのが「風味」の境地。
今展では桐の木を削って和紙をはり、秋のものたちをお月様に供えた。そういえば、越畑画伯の絵のなかに必ずあった「月」がない。どうやら、「月」の季節である秋には絵の外にでて静かに作品のなかの世界を照らしているらしい。なるほど月光のさやけき気配が絵に染み渡って美しい。結界のように並んで茶室の空間を作っている竹が、絵の脇でいい彩りとなっている。
この結界の隙間から見立ての茶室が見え、茶室から外界にかかる月の絵をみるとき、一瞬でも幻の世界が立ちあらわれて、「月と遊ぶ」空間となってくれないものか、と願うものである。
右画像は霊長類・ヒト科の檻となつた茶室と解き放たれたものたち。

嗚呼!大正浪漫

初日が明治、次はいきなりお江戸にとんだ悦部屋。今日は大正ということで。役者には事欠かないこの画廊だが、思いの他サハラ画伯の成長が著しいので、今日は一本立ちの記念の画像。
相方は、新人ながら悦部屋志願の気配濃厚の綾ちゃん。大正期の着物を胸高に着て駆け付けてくれた。先月、高村木綿子画伯の時にお手伝いにきてくれたのが最初の出会いで、ニコール展のときには青学で専攻したフランス語を駆使して見事な通訳を。
気合い入れてきてくれた綾ちゃんのためにも、何かいい絵をとらなくちゃと悦子もメラメラ。幸い、三浦のお姐御が届けてくれた慶応の学生服と帽子がある。早速、サハラ画伯に着せたらバッチリ。
大正はロマン、昭和初期はモダンという。港屋から出てきたばかりといった風情の綾ちゃんは「綾小路浪子」という令嬢に、画伯は帝大の学徒・実は明日には特命で渡欧する「伊集院武雄」に。
サハラ画伯の作品、-Bordering point-(向こうとこちらの接点)の前で、思いきり向こう側にいってしまった二人…あ~どないしよ。
遣る瀬ない
釣鐘草の夕の歌が
あれあれ風に吹かれてくる。
まてどくらせど来ぬ人を
宵待草の心もとなき
「おもふまいとは思へども」
われとしもなきため涙
今宵は月も出ぬさうな。
(宵待草)

後藤真由美展ー華ー

後藤真由美の初個展が今日から。2005年に武蔵野美大の日本画科を卒業したばかりのういういしい新人だ。
記念すべきデビュー展のテーマは「華」。今まで学んできた技法を踏まえつつ、具象や抽象、また映像など多彩な表現を試みたという。墨や金箔など古来からの素材を用いモダンな感覚で描いた作品や、自ら舞妓となった自画像「華」の50号など意欲的な作品が並ぶ。
 それらの華やかな金銀に彩られた空間は、後藤真由美という若々しい画家の色んな側面を映して楽しい。クリスタルのカットに光が乱反射する、そのきらめきを思った。 

西村亨人形展 スーパ—ソリッドドールズ II

第二回西村亨展のご紹介。昨年の初個展時、センセーショナルな反響を巻き起こした西村氏のソリッドドール。満を持しての新作25点が所狭しと居並ぶ今展も見どころ満載。
昨年に引き続き、DMの添え文は熱烈美術探索者の常磐茂氏のお願いした。まずはそちらから。

人形に命を吹き込む瞬間人形に命を吹き込む瞬間

60年代、日本でもモータウンサウンドがかかりまくり、弘田三枝子や中尾ミエが漣健児訳詞のパンチのきいたアメリカンポップスを大らかに歌いまくった。この時代、アメリカからくる音楽とファッションは両輪でまわっていた。
西村亨は自分をワクワクドキドキさせたそんな60年代から70年代をロマンティックな時代であったとし、当時をイメージさせるアメリカの人間像、それもごくありふれた人々を造形する。そしていささか奇異なしぐさの全体像とともに、リアリスティックな足の爪や指先、唇、機械の錆びや傷など思わぬ細部へのこだわりを発揮してみせる。さらに艶かしい肌、毛髪や着衣の質感、まなざしの方向などに目がとまるとき、対峙した者はそこに千差万別の寓意を抱くことだろう。「人形」に命が吹き込まれた瞬間だ。

如何だろうか。さすが、熱血!と自称するだけのことはある。私は彼らが往時を語る席に同席したことがあるが、例えば「太陽がいっぱい」という映画のどのシーンも克明に記憶し、どこにどの音楽がつかわれていたかで異様に盛り上がっていたものだった。
西村作品について語るときは、作品の細部と時代の記憶が分ちがたく結びついているため、見る人の技量もまた試される。作者のくすぐりどころ、おとしどころがわかるとさらに作品が生き生き動き出すのだ。単に懐かしむというだけでなく、妙にクールに眺め渡している感覚が西村流。スーパ—ソリッドドールと謳っているが、彫刻とも人形とも微妙にずれつつ、時代を俯瞰して立っている。
映画や写真で残る記録と、自分の記憶。西村氏の創作はこれらを踏まえた上で、どこにもない理想郷を目指す。「ロマンチックの残像」と題された展覧会のテーマは、いまや失われた「夢の国・あめりか」への揶揄に満ちた愛の告白に他ならない。

奥津直道展ー破天場HATTENBAー

奥津直道による悦子画廊デビュー。奥津氏は1976年神奈川県小田原近郊で生まれ育ち、東京工芸大学芸術学部デザイン学科を卒業すると、絵の道に入った。描くのは主に勇猛でエロティックな男たち。金箔をバックに浮世絵にも似た絢爛の「男振り」を見せる。
そもそもこれらの華麗な男たちを描くために写真学科からデザイン科に転じたというから筋金入りだ。「男伊達」とか「婆娑羅」とか男が孔雀のように絢爛豪華に彩られた時代は遥か昔になってしまったが、奥津氏は独自の世界観をもってこの幻想の「男」たちを今に甦らせた。
もともと、生まれ育った地方は、足柄の金太郎伝説の地。子供から兄貴になった金太郎が、鯉と格闘していると思えば祭りめいたこれら作品の力強さも納得。また、一連の作品に通底する禁断の理想絵図としてのなまめいた風姿も、彼を特徴づける。あくまでもマッチョな筋肉が日本の古典的な絵柄を背に大暴れする。あぁ三島にみせたかったなぁ。ちょっと脛が短いのが日本人的かも、と思うが聞けば漁師をイメージしてるとのこと。
まだまだ、これから華麗に展開するであろう彼の画業に、思い切り弾けてつきぬけろとエールを送りたい。濃密なエロティズムと斬新な古典のデザインはまだまだ追求する余地がある。奥津ワールドとして世界に類のない境地を是非追い求めていってほしいと思うのみ。健闘を!

小橋川共男写真展

沖縄の海が画廊に来た!ー小橋川氏の愛情に満ちた目がとらえた沖縄・泡瀬の海を三十数点の写真作品によってご紹介する。
そもそも、今展が画廊で開催されるに至った端緒は5年前にさかのぼる。悦子画廊が沖縄の那覇で開催した「沖縄を描く日本画展」の会場に、まだ退官なさる前の今展代表・水野氏が、松谷画伯のご友人の紹介でいらしたのがご縁。漫湖水鳥センターで、渡り鳥の保護や研究をしていらっしゃる方と承知した。
ご仕事柄全国を一周半渡り暮らしたという水野氏は退官後、沖縄北部の今帰仁に住まいを定められ、悠々自適の暮らしをされている、、と思いきや、火のように熱くなって「泡瀬干潟」の危機を訴え、是非東京のみなさんにもこの事実を知ってほしいと、小橋川共男氏が記録した泡瀬の写真集を送ってきてくださった。
年に何度も沖縄を訪れながら、泡瀬の干潟に関しては何の知識もなく、また埋め立ての事実も知らなかった私が、なにかもの申すのはおこがましいが、小橋川氏の写真が捉えた泡瀬の海の豊かさは、何より雄弁にここで何が行われているかを知らせるに十分な説得力をもつものだった。
自ら、泡瀬を記録しながら訪れる人々にこの海にすむ生物を紹介する地道な活動を、小橋川氏や水野氏らこの会の方々は手弁当でやっておられるという。鳥や草花、はては蜘蛛やミジンコの生命に感動し、「人間よりえらい!」と断言する我らが堀文子先生は、切られる運命だった樹齢700年のホルトの木を救うために私財を投げ出して守ったが、人間のすぐそばにある自然をもなかなか大事にできないのが現実だ。
だが、小橋川氏は写真をもって、水野氏は行動をもってこの現実を動かそうとしておられる。泡瀬の海の美しさに感動する多くのかたたちやご縁の方達から、さらに推進するエネルギーをいただいて、泡瀬の「守り人」のお役を全うせられますよう祈るや切。


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