押元一敏展 -KA・RA・DA-

例年なら桜の開花予想のニュースが聞かれる頃なのに、東北の被災は原発の不安と相まってますます深刻化している。

とはいえ、被災地ですら復興に立ち上がろうとしている時である。銀座まで灯が消えたようになっているのはいかがなものかと、貧者の一灯をともしているところ。
佛淵静子に続き、今日から始まった押元一敏もまた常に変わらぬ灯火を絵に点している。中世のキリスト教絵画や日本の仏像に啓発されたという押元の人体のフォルムは、ますますその洗練を加え極限に近づいているようだ。
女性の姿形を借りながら、その曲線は限りなく自然と相似して来ている。豊かな女性への憧憬は象徴に高められ、黒と黄土に塗り分けられた平面として静かにしかも意思的にここにある。
存在するものを、掴みたい現したいという押元の意思が、千年眠っていたかのような像に結集したのである。あこがれとも情緒とも決別した、ごろんとそこにある「本質」に迫る仕事といえよう。

押元一敏展

2000年の展覧会以来、十年ぶりの展覧会が今日から。
押元一敏(おしもとかずとし)は1970年、千葉県生まれ。1995年に東京芸術大学美術学部デザイン科を卒業し、’97年には大学院修士過程を修了、2000年に博士後期課程美術専攻満期退学した。その後2001年から’04年まで母校の非常勤講師、’04年から’07年まで常勤の助手をつとめ、現在は非常勤講師である。
’95年の学部卒業時には優秀な学生に贈られる安宅賞を受賞、同年から個展やグループ展など旺盛な活躍を始め、修了制作にはデザイン賞、’98年には三渓日本画賞展大賞を受賞するなど、華やかな存在として知られている。
東京芸大のデザイン科に在籍していた頃はアクリルと岩絵具の併用で制作していたが、徐々に膠の魅力に惹かれ和紙に岩絵具という日本画の手法を選んで今に至る。
もともと琳派などは意匠的な発想から生まれたものだけに、デザインと日本画は切っても切れない関係にあるが、芸大のデザイン科に日本画を描く学生が多くなったのは、押元が在籍当時に日本画家の中島千波先生が赴任した頃からと記憶する。洋画家の大藪雅孝先生と日本画の中島千波先生という優れた画家のもとで、助手や講師を勤める経験が、押元の作風を多様なものにしてきたのだろう。初期の人物や心象風景に留まらず、花鳥や静物などにも果敢に挑んできた。
近年は日本の仏教美術や世界の宗教美術の世界へと分け入り、そのフォルムからインスパイアされた作品を多く描いている。特にロマネスク美術の彫刻、ビザンチン様式のモザイク画、イコンに強い興味を示し、その精神性を学びつつ自己の表現へ昇華すべくさまざまな試みに挑んでいる。
今展もその一環で、「天使像」のトルソを連作で描いた。トルソとはご存じのように頭や手足がない胴体のかたち。天使には普通「天使の輪」がつきものだから、随分思い切った省略をほどこしたもの。前展では、大天使ミカエルなどその形象も意味も明確にわかるものを描いたが、描いているうちにどんどん抽象化が進み究極のトルソにたどり着いたのだそうだ。
まるで今日発掘された遺跡のように、わずかな光をまとうだけでそこにあるものたち。絵具を盛り上げ、削って線刻し、また色をのせる。何度も繰り返されたこの行為によって、何世紀もの時間によって風化したような印象の絵肌になった。
彫刻をつくるつもりになって描いた、という。十枚の連作も少しずつ色も形も変え、画面を刻んだ。天使の象徴とした「羽根」も形を最初から決めずにゆるやかに描き進めた。人体に羽根という形象は洋の東西を問わず、人間と神界をつなぎ、自由に往来する象徴として神話には必ず登場する。それを「ぎりぎりまで削ぎ落としたフォルム』の一部として描いたのには、羽根の象徴としてのオーラに思いを託すという意図によるのだろう。
画家としてこれから飛躍する時期を迎え、まず自身の内在する志向をつきつめたいとこれらのトルソに向かった押元一敏は、制作のなかで静かに「自分の天使」像を見つめ続け、抽象一歩手前までシェイプする作業から一番フィットする自分の色と形を見つけた。
あらためて聞けば山口長男やマーク・ロスコなどの仕事からも刺激を受けるのだとか。柔らかく全てを受け止め、自分の心にかなうものを時間をかけて選び、ためらいなく描く―おだやかな押元の人柄を思う時、その底にここまで何かを希求する強さがあるとは驚きだが、だからこそ順風満帆のこの時期にここまで冒険をするのだろう。
この仕事の舞台として選んでもらったことをうれしく思う次第である。

直野恵子展ー9回目の個展

直野恵子のこつこつ重ねた歩みも今年で九回目を迎えた。おー九回目か、と改めて直野恵子の愚直ともいうべき努力を思う。
1997年の開廊時にはまだ女子美大の学生だった彼女が、2000年の「文月展」でグループ展デビュー。翌年から個展の道中となった。初個展の時には、緊張のあまり顔もあげられず具合が悪くなって帰ってしまったことも。
真剣なその制作姿勢は今もかわることなく、悩みつつもその歩を進めている。画廊の看板の字を揮毫して下さった工藤甲人先生のアトリエは「蝸牛居」といい、そのいわれを尋ねたところ42歳でようやく上京し画家として立った遅蒔きの自分に、蝸牛の歩みをなぞらえ漢詩「百尺竿頭進一歩」の「遅く見えてもいつの間にか百尺を渡っている」という気概を託したのだという。
直野恵子を思うとき、いつもこの先生の言葉が浮かんでくるのは何故だろう。おそらく迎合ということをしらず、ひたすら自分の心を恃んでその求めるままに歩む彼女の姿を、ただただ見守るしかないからだろう。そのかたくなな殻も内部の柔らかい感性も全てが絵に向けて集約されていることにある時はあきれ、ある時は感心してきた。
絵を描かずにはいられないこのモチベーションは絵描きには不可欠なものだが、それが外部に理解されるまでの時差はそれぞれだ。独自性と普遍性を同時に成り立たせることは実に難しい。
だが、直野が拘る世界観と詩情がひとりよがりにならず、見る人の心に届くまでこの歩はたゆまず進むのだと思う。そして九(十)年一日の如くの試行錯誤が今、少し道が拓けたようにみえる。今まで自分だけに向かっていた心が、外に開かれたような印象の絵になったのだ。
静かな霧が立ちこめる冬の情景に託した心象は具象にも抽象にも思え、美しい余情をたたえる。このなめらかで清い気配は、俗を嫌ってはいるが人を拒否してはいない。自分のエゴを消し去って無心に絵に向かった清々しさが人を誘い込むのだろう。
この一連の作品が九年目の成果というものだろう。そしてこの手応えをどう次の一作に伝えるか、いよいよ楽しみな十年目となって来た。

直野恵子展ー八回目の個展

LABO展の20回目には及ばないとはいえ、29歳からスタートした個展も今年で八度目。独特の詩情に満ちたその作風をモダニズムの純文学と例えた方が今年いらしたが、まさに超絶写実とアニメが席巻している昨今の画界のなかにあっては孤軍奮闘の様相。
とはいえ頑固なまでに自分の描きたい世界に拘る直野恵子に迷いはない。年に一度個展をすると決めて以来、生活の中心を絵の制作におき常にそれが第一のくらしぶりだ。今年は「かざぐるま」の回る姿を写生したものをモチーフに200号の大作にチャレンジした。
広い草原のなかで一斉にカザグルマが回るその画面からは、キラキラした空気が拡散し画廊中に光が満ちた印象となった。自分の心のなかに入ってその心象を絵にするという行為を繰り返して絵を描く直野に、なにか他のものとの出会いによって化学変化をおこしたらどうかと進言したことがあったが、彼女なりの挑戦がこの大画面だったのかもしれない。十数センチのエスキースの宇宙から発想して野原のような壮大さを表現しようとする意欲にはやはり頭がさがる。これをもっと熟成させるには、まだまだ努力しなくてはいけないだろうが、彼女には彼女の努力の仕方がある。一歩一歩確認しながら手探りで歩んでいるということなのだ。わかる時まで物事はわからない。時期がくれば自明なことも歩んでいる最中は無我夢中で存外気がつかない。我が道を極めようとしている人にだけに降る、これだったんだ!という神様のプレゼントに直野が預かれますように、私は柱の陰からそっと祈るばかりだ。

きっと堀文子先生がいうように自分の毒を吐き出しきってその運命を生きる時、直野が本当に目指すこの一枚が出来るのであろう。

直野恵子展ー今年も大とり

直野恵子の恒例年末大とり個展がはじまった。2000年に村越由子・小林身和子とともにグループ展で初めて悦子画廊デビュー。翌2001年から怒濤の連続個展を決行して、今年七回目になる。 女子美大日本画科を卒業したのは1997年だから、悦子画廊の歴史と重なり二十代の直野恵子も今年35歳という。最初の個展の時は緊張のあまり、顔をあげられず椅子の上でフリーズしていた。せっかく絵を見に来てくれたお客様に、恥ずかしさのあまり「見ないでくださいっ!」と叫んでいたのも今は昔。繊細な画風も時とともに彩りを加えたが、年々の変化をさてなんと呼ぼうか。成長というには遅々として、だが内心の鬱屈を絵によって浄化しているような時はもう過ぎた。一人こもって絵を描く日々はそのままだが、毎年の個展の度に荒波をかぶり少しずつ心に筋力がついてきたのだろう。自虐的なイメージが払拭され、少し遠くから呼びかけるような印象の絵になってきた。
「優しい関係」と題された80号は、窓のように穿たれたものが絶妙のバランスで呼びかけ合い離れ合っている。ほんのいたずら書きのように引かれた線にも、このバランスを心地よいものにするべく十全の注意が払われているのだろう。
「灯送り」は、精霊流しのようなものを描いてみたかった、という意図から生み出された象徴的な作品。宙にういて漂う「灯」はまさしく魂の印。墨の合間に見え隠れする赤い色が、画面したの水に映るのも美しい。
作者は、目にみえるものより、その奥に隠されている意味を考え続けている。それが時にわかりにくかったり、一人相撲になったりするのだが、七転八倒しながらその奥のものを見ようとする意思が、「春望」という作品のような澄んだ光線を感じさせる世界を生み出す。
前の個展が終わって、さぁ今度こそ違ったものを描こう、と決意しても絵をいじっているうちにいつもの自分の作風になってしまうのだ、というがやはり一年一年の軌跡は同じではない。
「見ないで」と叫んでしまうほど内面をさらけだしてやってきた作者に、せめていい風が吹いたり美しい光が注いだりして、一日を豊かにしてくれますように‥‥。

直野恵子展ー四年目の反逆

女子美の三年の頃から悦子画廊に遊びにきていた直野画伯。創画会をベースとしつつ、2000年に文月展という三人展でムラコ村越画伯、コバッチ小林画伯とともに悦子画廊デビュー。翌2001年、意を決してソロでビュー。詩的情趣のある白い画面に、繊細なドリッピングをほどこした画風を本領としてきた。
四年目となる今展では、思うところがあったらしく赤を基調とした「破壊の衝動」という作品をDM作品として制作している。白の画面では納まりきらない情動を表現したかったというのも生きている証拠。この生すぎるテーマを絵にするには、まだ昇華されていない部分はあるが、少しでも前に進もうという意欲にまずは敬意を。
この傾向ばかりではないが、今年は特に赤を強調した作品構成。いよいよ30代にはいり、いままでの作風から一歩脱皮した表現を模索しているのだろう。もともと大人しそうにみえながら我が道を変えない頑固なたち。自分の表現したい世界にこだわって一歩一歩を歩んできた。その愚直ともいえる歩みこそ、ナオノ画伯の真骨頂だろう。今までの静かな祈りに、激しい希求をにじませた表現はなにか悲しみに似た、凝縮した空気を醸し出している。
今日は『直野に何が起こった!」と、DMで人を驚かせた彼女の、以外と元気な画像を。画伯近隣の皆様や、中学時代の同級生・永田嬢や北海道かえりの柴田由美子画伯、ご存じ牧ちゃん、Web大里っちなどに励まされるの図。

先生とJr.の激励

東京デザイナー学院時代の先生・黒滝淳女史と中尾Jr.崇くんがご来廊。若かりし頃に一気にもどって先生に「中尾君」とよばれつつ、自慢のJr.と久々の語らいを。Jr.くらいの年の頃に先生のご指導を受けていたのだろうか。その時のまま30年過ぎてしまったような不思議な感じにくらくらする。
夕方にかけては、初日にもいらした菅野氏が再登場。木綿子さん友人の松本光代さんも。悦子がこないだ阿佐ヶ谷のランボーというバーでゲットした湯澤君は画廊初体験。来廊暦3年の先輩Web大里氏から画廊での正しい過ごし方のレクチャアを受ける。
さて、みなさん楽しんでいただけただろうか。

羽黒洞・木村品子社長ご来廊

幅広い人脈を誇る中尾画伯、かつては肉筆浮世絵の修復を手掛けていたとのこと。その当時お世話になっていた、湯島の老舗・羽黒洞木村東助の品子社長が駆け付けてくれた。すでに伝説になっている画商木村東助氏の厳しい薫陶をうけた画伯、今でも修復のお仕事のプロ。
今展では、自作を表装したが一年あまりでそれが出来るようになったというのも、下地にそういう技があってこその事。
今日は、日本画修行時代の仲間・渡辺氏ご夫妻もご来廊、なつかしい
四方山話に花が咲いた。また昔の仕事仲間・写真家の龍角氏ご夫妻も。奥様の光子さんのお顔、どこかでお見かけしたことがあるなぁと思っていたら、な~んとおとといまで京王の同じフロアでご一緒していた方。
またもや世間は狭い事件、どこでどうつながっているやら。
また茅ヶ崎・ギャラリー俊でのグループ展最終日にこれから出かけるという陶芸家の佐伯守美氏もお迎えし、痛飲放談した初日茅ヶ崎館の夜の顛末を語る。あ~熱い男たち(だけ)の夜はさぞや、、。

作品の正しい鑑賞姿勢ーみそそ版

突然ですが、作品はこのようにリラックスして鑑賞いたしましょう、という悦子画廊版正しい見本を。
是非、という方はこっそり悦子に耳打ちをしてくれれば、画廊の作品世界はあなたのものに。
みそそ画伯はさすがに堂にいったもの、、作品の一部になっておりますな。中尾画伯もよろこぶに違いない秘蔵写真をこっそり。

中尾誠展初日

中尾誠画伯の個展が今日から。おがくずを固めた土台に岩絵の具で着彩する技法で描いた心象の作品13点を御紹介する。
悦子画廊では初めてになる画伯の発表につき、今展ではこれまでの作品から屏風と代表的なモチーフの作品をピックアップさせていただいた。
悦子との御縁は2000年の茅ヶ崎十人展以来。剛直球のお人柄とパワフルな絵に圧倒されつつ、いつかはと思っていたが今回機会を得てなにより。
1955年福岡に生まれ、川崎で育った画伯は東京デザイナー学院卒業後、日展の藤島博文氏に師事し日本画の技法を学ぶ。その後、山あり谷ありの人生行路(簡単過ぎ?)に裏打ちされた独特の絵を描き続けて今に至る。
触発されたという原始絵画の力強い線と形に、圧倒されるほど肯定的な色彩を賦した中尾画伯の世界は他に類をみないもの。
初日の今日は、茅ヶ崎のお仲間・武大人ほか池田美弥子・大野麻子画伯など十人展仲間とその仕掛人、個展終了直後のみそそ画伯、中尾画伯のご友人・菅野昭彦氏、写真家の池尻清氏、そのお友達ジュン・タカノ氏と奥様のマーガレットさん、悦子友達の横川氏など大勢のお客人をお迎えした。
愛妻・辰巳渚女史こと木綿子さんと、私淑している表装師 ・川崎忠彦氏も激励を。

作品集を見る

直野画伯展&今年展最終日!!

今年最後の展覧会、直野恵子展が無事終了!!!!!
あぁこれで休める~、という訳ではないのだが、ひとまず怒濤の日々
から解放。あとはなんとかなるだろう。
昨晩、直野画伯と寿司屋でしみじみ物語。精一杯頑張った感慨と、それでもやりたりなかった悔しさを聞きながら、こちらも疲労困憊のためか感慨無量のためか、つい涙が…。
いや、今年も濃かった!いやいや、年々濃くなる感じが?もうだめかも、と思う度に画伯たちの絵が元気をくれた。疲れてると、お客さまたちが手伝ってくれた。本当に有り難い事と思う。この世知辛い世の中にこんな風になんとかやってこれたのは奇跡に近いことだ。
もちろん、一杯迷惑もかけていることと思う。目の大きいザルのように、なんだか抜け落ちてしまう記憶とお金を拾い集めつつ、一年に30回の展覧会。外の展覧会が4回。悦子は年中でも画伯たちには年に一回の展覧会だから、一回一回が真剣勝負。この緊張感の中、画伯たちと伴走していくスリルとサスペンスは、何回やってもなれる事はない。
うまく行く事もいかない事も毎年違う。怒濤の上に怒濤が重なり、白亜期だのジュラ期だの、の層が出来るはめになるのだが、それはこれから大晦日までの間に。あら、思い出しちゃった!やんなきゃ。
それはさて、最終日の今日も直野画伯はよく働いた。同級生の伊藤さんとカメラマンの清水さんの他、現代詩の詩人・小林弘明さんも。詩が好きな直野画伯の絵に素敵な展評を。最終駆け込みの高崎君は搬出のお手伝いまで。
さぁ~、明日は男にあぶれたいい女たちのクリスマス・キリタンポパーティ。もちろん直野画伯もご一緒につき、今日は早めのお帰りで、お疲れさま~。皆様もいいクリスマスを!

直野頑張る!こわばりを越えてー

初個展の時、緊張のため顔を上げられずお母さまの叱咤を受けた直野画伯。さすが三度目のキャリア、ややこわばる筋肉と恥ずかしげな目線はやむを得ないとして、なかなか度胸がすわってきたご様子。
今日は女子美時代の恩師・創画会の池田幹雄画伯と宮城真画伯、高校時代の恩師・轡先生が御来廊。暖かい励ましを受けた。恩師運がある直野画伯、この方たちが指導してくれたからこそ続けられた絵の道だったとしみじみ…。今も楽しみに見に来て下さるのは、本当に有り難い事。
また、妹さんご夫妻と女子美先輩の有田さんも激励を。お仕事先のお知り合い亀松さんご夫妻は初めて画伯の絵を御覧に。
まだ緊張解けやらぬ画伯ながら、色々な方たちから暖かいお言葉を頂きつつ、けなげな表情で頑張っているお姿を。


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